▼ドキュメンタリー映画「Jesus Camp(ジーザズ・キャンプ)」▼

ノースダコタのキリスト教原理主義者が主催する子供キャンプの実態を
記録したドキュメンタリー映画で、子供の精神的指導者である女性牧師
はキャンプの目的を次のように語る。

「イスラム教では神のために死ねる"神の戦士"を幼い頃から育てている。
私たちキリスト教徒も同じことをしなければならない。」

「これは戦争なのです!」と牧師のフィッシャーは子供に向かって叫ぶ。

フィッシャーの敵はイスラム教ばかりではなない。彼女はこうも叫ぶ。
「アメリカをキリスト教徒の手に取り戻すのです!」

「清教徒によって始まったアメリカは、いまやユダヤ教徒、仏教徒、イ
スラム教徒などの異教徒と、ゲイや信仰心の薄い人々に押され、メディ
アも愛国的でない人々に支配されてしまった」と彼女は述べる。

映画には、幼いうちから異教徒やゲイへの憎しみを植えつけさせるため
に、敵の名前を書いたマグカップを子供に割らせるシーンがある。そし
て子供たちに、イスラム教徒やゲイや妊娠中絶と戦うキリスト教原理主
義者の大統領ブッシュと星条旗の写真を拝ませる。

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▼アメリカのMadrassas(宗教的教育施設)▼
デイヴィッド・バーン ジャーナル 02 August 2006
http://journal.davidbyrne.com/

「Jesus Camp 」というドキュメンタリーの上映を見た。映画はノース
ダコタのサマーキャンプで子供たちに吹き込む女性説教師(ベッキー・
フィッシャー)に集中させる。右翼の政治日程とスローガンが、多くの
子供たちが涙に明け暮れる生まれ変わる儀式と結びつけられる。解放=
救済と喜びの涙、子供たちはまったく悪用されないと彼らは主張する。
さまざまな教会から補充される9歳か10歳ぐらいの子供たちで、言い
なりになって避難所を欲している。子供たちは、進化論は神を信じない
邪悪な非宗教的人間至上主義者らによって私たちに押しつけられている、
妊娠中絶はぜひとも止めさせなければならない、神を信じない影響ある
有力者たちを負かすため私たちは「軍隊」を組織しなければならない、
まともな判事や政治家を裁判所や公職につかせる保証となるよう私たち
は団結しなければならない、そして地球温暖化はウソである、と教えら
れる。(最後の地球温暖化は困惑だ、気候の変化や地球温暖化が反キリ
ストになる証拠だと、どうして認めたか?誰かが、単にすべての法人の
予定表に、イエス・キリストと神とこれらを認める連中をひとつにまと
めたのか?イエスはSUVを運転するだろうか?結論に責任がある科学者
すべてが注意人物になるのか?)

その他の世界の知ってることは削られる。予定表に符合することだけを
眺めたり読んだりできる。

子供たちは若いので当然、どんな種類の質問もない。おとなのフィッシ
ャーや他の人間の言うことを簡単に受け入れる。子供たちは奮い立たさ
れ(やる気満々)、激しく揺り動かされる。子供たちは右翼とイエスの
スローガンを暗記して従順に大声で叫んで返す。彼らは予備グループの
一部になる。うちとけた動物ならなんでも、君やボク、誰に対しても、
熱心で危なげない気持ちのよい思いやり。誰も脱線しない、これっぽっ
ちもはみ出ない。

キリストのために進んで死になさいと宗教的指導者フィッシャーが子供
たちに教え、子供たちが従順に受け入れる時に、完璧な辛辣味があった。
中東でショッキングな同調的反応のある言葉、殉教者を彼女は使う場合
がある。ボクには、イエスのために死ぬのをいとわない自爆者の将来像
が見える。次の段階は航空機をビルに突入させる操縦を学ぶことなんだ
ろう。もちろん、おとなたちは「いえ、いえ、私たちはあの連中とは違
います」と言うだろう。でも、主要な違いが、単に「私たちは正しい」
にすぎないのを、彼らは認める。

別のシーンでは、トレードマークの作り笑いを浮かべたジョージ W. ブ
ッシュのボール紙の切り抜きが現れ、子供たちは一体感を持つように激
励される。多数の子供が前に出て、うやうやしくボール紙の手に触れる。
ボクは自分に言い続けた、「オーケー、これはMadrassas(パキスタン
やどこかよそのイスラム教の教訓的学校、多くの場合、サウジアラビア
のオイルマネーが資金源)のキリスト教版だ、、、つまりどちらもまっ
たく同程度に病的(狂ってる)、均衡している。」(Madrassasは標準
的な教育を提供すると言わねばならないが、文字通り他の選択肢は手に
入らない、彼らは宗教とは別のコミュニティの仕事をする、、そして、
目的のない不安な若者を取り入れる。)

彼らは米国をキリスト教版のイランやサウジアラビアに変えたい。神権
政治。国を預かっているブッシュですでに怪しい政教分離は、この連中
によって丸出しの強襲下にある。そして彼らはよくまとまってもいる。
並外れて大きい教会は、誰に投票すべきか、支持する判事、書くべき書
面、どの争点を主張すべきか、などを教区民に教える。まあ、ボクたち
はみなある程度これをやる、結論を導き出そうとしたり意見の一致に達
しようとして友達とのチャットでさりげなく。かなり多数の話題で、感
傷的な民主主義のギブアンドテイクは、たいていたまらなくなって同意
する。でも、これはトップダウンのお告げだ、討議は許されない。週に
一度ブッシュと話す説教師がやってるコロラド・スプリングスの並外れ
て大きい教会でのシーンに、子供たちにしているのと同じ扱いがある。
ただ参列者のほとんどが言いなりになる大人ってだけ。

コロラド・スプリングスは何をしているのか?リトルトンはこれら並外
れて大きい教会のまさに隣家。同じコインの裏表だとボクは思う。一方
がもう一方を育てる。この変な「キリスト教徒」らしからぬキリスト教
徒的信仰(原理主義のイスラム教のグループについて、イスラム教の預
言者の曲解=こじつけと言われているのとだいたい同じ)に加わるよう
人びとを導く不満と疎外が、リトルトンとコロラド・スプリングスの両
方にまで連れていく。そして精神を楽しく空(から)にさせる点で、そ
れらは一致する。

ラジオ、エアーアメリカに電話で参加する視聴者、自らが元説教師の男
が、このキリスト教徒的信仰をしかりつけるシーンをドキュメンタリー
は並置する。ボクたち観客の大多数に関しては、こういうシーンは九分
通り無用に思えた。でも、構成に軍隊が潜むとき、ハートランド(中核
地域)の恐ろしい光景からほっと一息ついた。小麦畑からゾンビーが。

嘆かわしい、ハートランドと同じく大都市の不健康に触れられていない
エリアは、大いに役立つ現実的な知恵(分別)の生息地でもある。大地
から生まれ、経験から生まれた知恵は、定期的に都会のジャングルを掃
除する最新流行の職業上の倫理にかなった政治的な哲学によって汚され
ていない。

人は米国やイスラエル、パキスタン、アフガニスタンやインドで宗教的
な曲解に気づくとき、イエス、モハメッド、マルクスなどのような見通
す力のある人や啓発された預言者によって植え付けられた精神的な種子
は大きな社会が扱うにはあまりにもはかなすぎるのかしらと思う。ある
人は宗教的なビジョンは個人的なこととして留めおく、あるいは少なく
とも小さなグループに制限するのがよいかどうか聞く。その逆には、宗
教の名によって振りまかれる死や破壊は、幾分かモラルや人格のよさに
匹敵するかどうか聞く(これは多数)。

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▼「Jesus Camp」映画評より▼by Rob Nelson 19 September 2006

喝采を浴びた映画「The Boys of Baraka」の監督、ハイジ・ユーイン
グとレイチェル・グラディは、「Jesus Camp」で福音主義のキリスト
教徒として成長する子供たちを紹介する。

5歳だったとき「救われた」12歳のレヴィは、霊に満たされたときを
除けばシャイな男の子だ。9歳のレイチェルは神への愛を堂々と話す。
彼らはキリスト教信者の両親によって家庭でしつけられ、教会や教会の
イベントで対等な子供たちと影響しあう。夏は神への献身をさらに強め
るため、ノースダコタのデヴィルズレイクでのベッキー・フィッシャー
のサマーキャンプ、「キッズオンファイアー(熱中する子供たち)」に
行く。

フィッシャーは子供たちの宗教的指導者で、彼女は子供相応の感情と頭
に電流をつなぐことを得意とする。彼女はこの世代がヴィデオや映像や
音楽から情報をアクセスするのを明確に理解する。

子供たちのシーンにインターカットするマイク・パパントニオのラジオ
のコメント、彼はイエスがそのために死んだオリジナルの愛の教えから
福音派のひとたちの活動はそれていると考える。環境、霊魂創造説(個
人の魂は受胎または出生の際に神が無から創造するとする)、他の根本
的教義について、活動の見解が近視眼的で、結局は保守的な活動に損害
を与えることになると、彼は心配する。

そして政府はどういうことに陥るか?福音主義教会の信徒らは、絶えな
いプレッシャーを彼らが選挙で投票した役人にあてがい、彼らの大統領
としてのブッシュで長足の進歩をしている。

この子供たちがおとなになったとき、政治や宗教におけるその影響力と
いったらどんなものだろうか?

「Jesus Camp」の子供たちは頭がよく、能力を与えられ、宗教的法悦
に伴うわけのわからないことばを話す、そして世界を変える決心である。