■ブレア首相が最後の訪問■東京新聞 19 May 2007

AP通信によると、来月下旬に退陣するブレア英首相は19日、イラク
のマリキ首相らと会談するため予告なしに首都バグダッドを訪問した。

到着直後に会談場所がある首都中心部の米軍管理区域(グリーンゾー
ン)付近で砲弾やロケット弾によるとみられる爆発があり、1人が負傷
した。

爆発はグリーンゾーン内で3回発生し、うち1回は英大使館の敷地内だ
ったが、ブレア首相の報道官は「特に変わったことはない」と述べた。
グリーンゾーンの外でも爆発が1回あった。

ブレア首相のイラク訪問は7回目でこれが最後。マリキ首相らに英国が
今後もイラクを支援していく意思を伝えるとともに、治安安定につなが
るイスラム教の宗派和解をどう進めていくかを協議した。

ロイター通信などによると、会談後の記者会見でブレア首相は「サダム
(フセイン元大統領)を排除したことを後悔していない」と述べ、国内
の反対を押し切って米国などと共にイラク攻撃に加わったことは誤りで
はなかったとの考えを改めて強調した。

同首相はまた、英国が今後もイラク支援を続けるのは間違いないと言明。
イラクの治安が困難な状況にあることを認めつつも「変化と前進の真の
兆候がある」と主張した。

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■尊敬を強く求めたブレア首相、不要の戦争で尊敬失う■
フィナンシャルタイムズ 11 May 2007
by ジェフリー・ウィートクロフト

「いかに尊敬されるか。自分がなにを残すか。自分にとって大事なのは
それだけだ」

ボクサーのフロイド・メイウェザーはラスベガスで5日、引退試合の前
にこう語った。そっくりそのまま、トニー・ブレアの言葉だといわれて
もおかしくない。辞任を表明し、いまやグローブを高く掲げて、最後の
あいさつをするかのようなブレア首相は、同じ思いでいるかもしれない
のだ。では、ブレア政権の遺産とはなんなのか。歴史はブレア首相にど
れほどの敬意を払うのだろうか。

歴史という観点にたてば10年などは一瞬にすぎない。だが10年前の
1997年5月2日にブレア首相がすさまじい高揚感に包まれてダウニ
ング街10番地に舞い降りたあの時を振り返ると、ずいぶんと時間がた
ったのだなと感慨におそわれる。あのときのブレア氏は、すべてがうま
くいっていた。その気になればやりたいことはなんでもできるはずだと
心底そう思えた。当時、あれほど盛り上がり、あれほど期待が高かった
分、いまにいたっての期待外れは、なおのこと強いというわけだ。

ブレア時代の遺産は、ものによっては磐石に見える。だが、じっくり点
検し始めるとなると、果たしてその成果は本当に彼のものなのかと疑問
がわいてくる。ブレアの10年間で確かに英国経済は栄えたが、ことに
よるとそれはゴードン・ブラウン財務相の10年だったかもしれない。
英国経済がうまくいったもうひとつの理由は、フィナンシャルタイムズ
のマーティン・ウルフが4日に書いている。英国経済がうまくいったの
は、「欧州の経済通貨同盟に参加しないという(ブラウン財務相の)判
断のおかげ」だと指摘したのには、ついつい笑ってしまった。

「まさにそのとおり」と言うのが、いまでは多くの経済学者のコンセン
サスのようなものになっている。だが、かつては、別のコンセンサスが
あった。「新しい労働党」幹部やブレア大好きのマスコミは10年前、
こぞって声高に「ブレアこそ、この国始まって以来の、親欧首相となる
はずだ」と主張。ブレアはただちに欧州統一通貨に参加するだろう、遅
くとも最初の議会会期中にはやるはずだと、それが当時の「コンセンサ
ス」だった。計画した通りの政策で失敗するはずが、計画なしにやった
ことで成功する。政治指導者とはえてしてそういうもので、欧州統一通
貨とブレア政権の関係はまさにその典型例だ。

ほかにも、10年前のブレア首相に寄せられた期待の多くは実現しない
まま終わった。当時の熱心なブレア支持者の中には(たとえばオブザー
バー紙のウィル・ハットン元編集長など)、ブレア氏にそれはそれは期
待していたものだ。ブレア氏は、ケインズ主義と社会民主主義を足して
合わせたラジカルな改革者になるだろう、労働組合を強化し、所得税を
増税し、富の再分配を実行するだろうと、ブレア改革を期待していた。
一方で、元フィナンシャルタイムズの記者ロバート・テイラーはもう少
し先を見越してあのときの総選挙の前触れとしてこう書いている。「新
しい労働党の<プロジェクト>とやらは、マーガレット・サッチャーの
最終勝利のように見えてならない」と。

ブレア政権の内政での成果をどう見るにせよ、ひどくどす黒い暗雲がい
やな影を落としているのは間違いない。1997年や2001年の総選
挙でブレア氏に投票した人は誰も、イラク侵攻に票を入れたわけではな
いのだ。最初の頃はブレア氏を称えていた人たちも、イラク戦争参戦に
持ち込んだ首相のやり方については、その判断にせよ公明正大さにせよ
疑問を抱いている。そしてイラク侵攻後の悲惨な状態は、永遠に消えな
い傷をブレア首相の名に残してしまった。

それだけに、首相辞任後のブレア氏の役割についての最近の一部報道は
実に奇妙だ。膠着したままの中東和平プロセスを生き返らせるために、
ブレア氏は「移動大使」となって中東各国を歴訪するのだというが、こ
れはあまりに奇天烈すぎる。その役割にこれほどふさわしくない人は、
まずいないというのに。

ブレア氏がイラク戦争後の中東地域でいくらかの信頼をかろうじて保っ
ていたとしても、それは昨年の夏にすっかり消えてなくなった。いつい
かなるときでもホワイトハウスと肩を並べていたいという、ほとんど屈
折しているとしか思えない衝動がブレア氏にはある。その自分の衝動に
忠実に、ブレア氏は米国と一体となって、イスラエルのレバノン攻撃を
支持したのだ。労働党議員のほとんどが、そして英国民の大半が、あの
戦争を強く非難していたにもかかわらず。今となってはイスラエル国民
でさえ、ほとんどが、あの戦争は間違いだったと思い直しているという
のに。

昨年末にブレア首相がレバント地方(レバノン、イスラエル、パレスチ
ナなど)を訪れたとき、日刊紙ベイルートデイリースターのマーク・シ
ロイスはBBCラジオに対して、ブレア氏は公平中立な仲介者には絶対に
なりえないのだから、訪問は無意味だと指摘。「アラブ全体で、そして
特にパレスチナでは、ブレア氏はブッシュ政権と米国の政策を支持する
人間だと、完全にそう思われている。アラブ地域で、ジョージ・ブッシ
ュは憎まれているかもしれないが、威信はある。ブッシュの言うことに
は、みんな耳を傾ける。ブレアには、それすらない」

つまりそれこそが、ブレア氏についての苦い真実だ。8年前、ある米国
ジャーナリストがブレア首相のことを「自由世界のリーダー」と呼んだ。
しかしいま、そんなことを言おうものなら、確実にバカにされてしまう。

1920年代のネビル・チェンバレンは、創造性あふれる優れた政治家
だった。閣僚として地方政治改革などさまざまな改革を実行した。19
31年から37年の間は財務相として務め、大恐慌から立ち直ろうとす
る英国経済を救った。だが、いまとなってはチェンバレンの内政上の偉
大な業績を憶えている人がどれだけいるだろう? チェンバレンのそれ
までの功績は、首相としての3年間ですっかり打ち消されてしまった。
ネビル・チェンバレンは、ヒットラーに宥和政策をとった(その結果、
ナチスドイツに軍備増強の時間を与え、チェコスロバキア解体、ポーラ
ンド侵攻を許したとされる)政治家としてのみ、記憶されているのだ。

ことによると、ブレア首相は自分はまさにその反対のことをしたのだと
主張するかもしれない。しかしチェンバレンが失墜したのは、真の意味
で「戦いたいからではなく、戦う必要があるから戦うべき」戦争を回避
しようとしたからだった。その一方でブレア氏は、必要な戦争だからで
はなく、戦いたいから戦う、無意味で違法で惨憺たる結果につながった
戦争に国民を巻き込んだのだ。悲しいかな、この結論こそが冒頭の「遺
産」と「尊敬」の答えだ。ブレア氏が残す「遺産」とはこういうもので、
歴史が果たしてブレア氏にどれだけ敬意を払うかというのも、押して知
るべしだ。


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