■チベット、「スパイ活動」と CIA■アジアタイムズ紙 31 March 2008

by リチャード・M・ベネット

チベットの不穏の歴史的情況を考えるなら、計画がチベットの外で実行

されたことや、抗議者らの指図が同じく力の及ばないネパールとインド

北部の反中国オーガナイザーの手中にあるとの単純な理由から、最近の

デモで北京が騒ぎまわっていると信じる理由がある。

同じく、資金と不穏の全体にわたるコントロールもまた、チベットの精

神的指導者ダライ・ラマと彼の50年以上にもおよぶアメリカ情報機関

との密な協力から、推論によってアメリカの CIAに関連づけられる。

それどころか、 CIAのフリーチベット運動との強度の掛かり合いと、疑

わしいほど情報通のラジオ・フリー・アジアへの CIAの資金供給で、ど

んな暴動も事前に知られずに、そしてラングレーにある CIA本部の国家

秘密局(以前は作戦重役会として知られる)の同意なしに計画されるか

起こされるなどというのはありそうもないことに思える。

3月14日のラサの最初の蜂起は「役に立つ証拠を基礎として、あらか

じめ計画され、よく組織化されていたという妥当な確信で値踏みするこ

とが可能だった」と3月21日、尊敬されるコラムニストでインド情報

局の元上官、B・ラマンはコメントした。

チベットを襲う死と破壊で、主な受益者がワシントンにいるとの思いつ

きに、事実に基づく根拠はあるものか?これが紛れもないありうべきこ

となのを、歴史が示すことになる。

1956年、 CIAはチベットの共産主義の中国人に対する大規模な秘密

工作キャンペーンの指揮に取りかかった。これが1959年の大変な苦

痛をもたらすどえらい蜂起に至って何万人ものチベット人が死ぬことに

なった。その間にダライ・ラマと約10万人の信奉者らが油断のならな

いヒマラヤ峠を越えてインドとネパールまで逃げるのを余儀なくされた。

米国コロラド州リードヴィル近くのキャンプ・へールで、 CIAはダライ・

ラマのレジスタンス闘士のために秘密の軍事訓練キャンプを開設した。

チベット人ゲリラは、共産主義者の中国人に対するゲリラ闘争と破壊活

動作戦を CIA によって訓練され、必要なものを装備された。

折に触れて CIAの契約傭兵によって導かれたり、CIAの飛行機によって支

援されて、米国が訓練したゲリラたちは定期的にチベットに不意の侵入

を成し遂げた。初期の訓練計画は1961年12月に終わったとはいえ、

コロラドのキャンプは少なくとも1966年まで使用自由のままになっ

ていたらしい。

チベット人ゲリラ軍と一緒に、ロジャー・ E・マッカーシーが作ったCIA

チベット任務部隊は、中国占領軍を悩ませるため ST CIRCUSというコー

ドネームの作戦を1974年までもう15年続けた。74年には掛かり

合いをやめるのを公式に認可した。

また1959年から1961年まで、活発な動きの絶頂にチベット任務

部隊の指揮官として務めたマッカーシーは、後にヴェトナムやラオスで

も同様の作戦を動かし続けた。

1960年代の半ばまでに CIAは、チベットにゲリラ戦闘員と諜報部員

をパラシュートで投下する戦略から、ネパールのマスタングといった基

地で2000人の Khamba族戦闘員のゲリラ軍、Chusi Gangdrukを確

立する戦略に切り換えていた。

この基地は北京によるおびただしいプレッシャーの下に委ねられた後、

ネパール政府によって1974年に閉鎖されたにすぎない。

1962年のインドシナ戦争の後、 CIAはチベットの情報員の訓練と供

給の両方でインド情報機関と密接な関係を展開した。

ケネス・コンボイとジェームズ・モリソンの二人は「チベットにおける

CIAの秘密の戦争」という本の中で、CIAとインド情報機関がチベット人

スパイと特殊部隊の訓練や軍隊の装備、軍用機リサーチセンターと特別

センターといった共同のアンテナと情報ユニットを形成することで助け

合ったことを暴露する。

この共同作業は1970年代まで効果的に続いたし、それが後援するプ

ログラム、特にインド特別国境隊の重要な一部になるチベット難民の特

別部隊は現在に至るまで続く。

ただし、北京との関係改善と時を同じくしたインドとの関係悪化が、 CIA

とインドの共同作業の大部分を終わりに導いた。

1968年以降、ワシントンがチベット人ゲリラへの支援を縮小させて

きたとはいえ、政府公認の抵抗運動への支援の終わりは、わずかに19

72年2月北京でのリチャード・ニクソン大統領と中国共産党指導部と

の会談中に出てきたものと思われる。

元 CIA職員のヴィクター・マルチェッティは、最終的にワシントンが手

を引いたとき、多くの現場の諜報員(スパイ)が感じた憤激を説明して

いる。そして幾らかは「彼らがダライ・ラマといっしょに何年間か学ん

できたチベットの祈祷を慰めに、頼りにさえした。」と付け加える。

1958年から1965年まで、元 CIAのチベット任務部隊だったジョ

ン・ケネス・ナウスが「これは CIAの情報入手のための不法侵入などで

はなかった。」と言うのが引用されている。「主導権は米国政府全体から

起こってきていた。」と彼は付け加えた。

彼の本「冷戦の孤児たち」でナウスは、チベットの中国からの独立運動

に対してアメリカ人が感じる責務について書く。その実現化が「40年

以上前にこのゴールを彼らが達成するのをなんとか助けようとする私た

ちのもっと立派な動機を有効にするはずだった。」と意味ありげに彼は付

け加える。

当局から出た支援がないにもかかわらず、ただの代理人によるものであ

れ、1987年の別の失敗した暴動に CIAが掛かり合ったとまだ広くウ

ワサされる。後に続く不穏と当然の結果の中国の鎮圧は1993年5月

まで続く。

チベットにおける中国支配を不安定にする新たな重大な企ての時期を選

ぶことが CIAには好ましく思われたのだろうし、ラングレーは確実にあ

らゆる選択肢をオープンにしておくつもりだ。

中国は新彊自治区のウイグル族イスラム教徒で重大な問題に直面してい

る。他の多くの反体制グループの中で特に Falun Gongの活動と、もちろ

ん、8月の夏期オリンピックのセキュリティに関して心配は増す。

ワシントンによって中国は、アジアばかりかアフリカやラテンアメリカ

においても、経済と軍事の両面で大きな脅威とみなされる。

また、アフガニスタンと中央アジア諸国でのイスラム過激派の動きを支

援するための中国西域のイスラム教エリアから武器や男たちが流出する

のを阻止することで積極的になにもしないことや提供される協力がほと

んどないことで、 CIAは中国を「テロ戦争」では「役に立たない」とみ

なす。

チベットがいまも中国の潜在的な弱点と見なされるとき、ワシントンの

多数にはこれが北京政府をバランスから外れると強く印象づけるのに申

し分のない好機らしく思われるかもしれない。

この全面にわたって増大する反乱で識別する指紋が発見されないことを

CIAは確実に保証するはずだ。秘密活動をしている者の接触を隠すため

に使われる企業や代理人が、ネパールやインド北部の国境地帯にいるチ

ベット人追放者の中にまじって活用されることになる。

実際、 CIAはインドとネパール両国の幾らかの警備組織から重要レベル

の支援を期待することができるので、抵抗運動に助言や金、とりわけ公

表(宣伝)を提供するのに骨は折れないはずである。

しかしながら、漢民族とイスラム教徒に対する大規模なチベット族によ

る反乱が公然となることで不穏が正真正銘のきざしを示すまではどんな

武器の出現も許されないであろう。

うわさでは、過去30年におよび大量の元東欧圏の小火器と爆薬がチベ

ットに密輸されてきているそうなんだが、機会が到来するまで安全に隠

されたままになっているらしい。

武器は世界のマーケットか米軍とイスラエル軍によってぶんどられた備

蓄からもたらされている。それらはきれいにされており、否認できて、

CIAにさかのぼることができない。

中国軍によって使われることから、またこの種の武器には互換性がある

という強みがある。もちろん同じ弾薬を使う。将来のどんな争いでも補

給の問題を容易にする。

チベットの抵抗への政府支援は30年前に終わったとはいえ、 CIAは後

方連絡網を設けたままにしており、チベット解放運動に大金を繰り入れ

たままである。

では、また CIAがチベットで「スパイ活動」をやっているのか?

その地域での重要な諜報活動と准軍事的存在のせいで可能性があるのは

確かだ。アフガニスタン、イラク、パキスタン、中央アジアの数カ国に

は主要な基地がある。

もっと明白な標的のイランと同様に、中国を陰険な手段で傷つけること

に関心があることは疑われない。

つまり、有望な答はイエスだ。それどころか、 CIAがチベットについで

以上の関心を持っていなかったとしたら、むしろそのほうが驚かれるは

ずだ。

単なるウィン・ウィン情況、アメリカの国益にほとんどリスクがないせ

いで、ワシントンと CIAにはこれが北京に対して重要なテコ(感化の手

段)作りのための天来の好機に思えるかもしれない。

中国政府は弾圧と人権侵害を続けるせいで世界的な非難の的になるだろ

うし、戦闘服を着たアメリカ人の子どもよりさらに多くのチベット人の

若者がラサの通りで死ぬことになる。

しかしながら、北京に対するどんな公然の反乱の結果も、甘粛や四川と

いった人口にかなりのチベット人がいる隣の省とチベット自治区両方の

街角ごとで、またふたたび逮捕や拷問の恐怖と処刑の恐怖までもが幅を

きかせることになる。

今度もまた、チベット民族が圧政的な北京と巧みに操るワシントンとの

あいだで彼ら自身が困難な立場に追い込まれたことに気づくのがはっき

りすることだろう。

・北京は重戦車で送る

ダライ・ラマを支持する不平分子による一時的な不穏の勃発という当局

の記述どころか、まるで正真正銘の大反乱が差し迫ったかのように中国

当局が反応したのはなぜか、米国や英国や他の西側諸国がチベットをも

うひとつのコソヴォとして精力的に描写しようとするかもしれない恐れ

がその理由の一部分であるかもしれない。

UPIの報告によれば、人民解放軍のエリート地上部隊がラサに掛かり合

った。そして新型の T-90兵員輸送装甲車とT-92旋回装甲車が配備さ

れた。その報告によると、中国は弾圧での軍の参与を否定しており、武

装警備隊(警官隊)によって実行されたと述べる。「しかしながら、上記

に挙げられたような装備が中国の武装警備隊によって配備されたことは

一度もない。」

空からの支援は四川省成都の Fenghuangshanに基地のある陸軍第二航

空連隊によって提供される。連隊はラサ近くの前線基地からヘリコプタ

ーと短距離離着陸輸送機の寄せ集めで軍事行動をとる。戦闘機支援は、

成都域内に基地を置く地上攻撃用戦闘機飛行中隊からの求めに急いで応

じさせることができた。

チベットもまた、もはやへんぴというか中国軍にとって補給が難しい遠

隔の地ではない。2001年と2007年の間の最初の鉄道の建設が、

青海から高低のあるチベット高原への大部隊と軍備の移動の問題を意味

ありげに容易にした。

他にも先の長期のチベット反乱の再開に対する警戒がチベット駐屯兵に

よる兵站業務と乗物修理でかなりの程度の自足に至っている。そして最

奥地にも迅速な応戦部隊に接近の手段を獲得させるため、小さな軍用飛

行場(離着陸場)がますます建設されてきている。

中国の安全保障省と情報機関はチベット自治区に息が詰まる存在(駐留)

があると考えられていた。それどころか、どんな本格的な抗議行動も見

破り、レジスタンスを鎮圧する能力があると考えられていた。

▲ Richard M Bennett:AFIリサーチにて、諜報と安全保障のコンサルタント。


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