■悪名高いパレスチナ人傭兵アブ・ニダルは「アメリカのスパイだった」

インディペンデント紙 25 October 2008 by Robert Fisk

恐れられた暗殺者はサダムとアルカイダを関連づけるものを見つけるた

め雇われたと機密文書は主張する。

アングロアメリカン(米英)のイラク侵略のわずか数カ月前、イラク秘密

警察が彼を尋問したとき、悪名高いパレスチナ人暗殺者アブ・ニダルは、

エジプトとクウェートはもちろん、アメリカ人のために働いていたと彼ら

は信じた。いまインディペンデント紙が所有する、サダムの目だけに触れ

るサダム・フセインの残忍な警護組織部門によって書かれた従来の機密文

書は、彼がアメリカ人と「共謀」してきており、エジプト人とクウェート

人の助けを借りてサダムとアルカイダを関連づける証拠を見つけようと

していたとはっきり申し立てる。

イラクの大量破壊兵器保有はもちろん、2003年の侵攻の理由のひとつ

としてジョージ・ブッシュ大統領はアルカイダとの関係の主張を利用する

つもりでいた。2002年8月アブ・ニダルが自殺したとのイラクの主張

を西側記者らは簡単に片づけるつもりでいて、彼の存在が彼らにとって妨

げになるものになったとき、サダムの警護組織部門が彼を殺したのだと示

唆する。イラクからの機密文書は、「このまともな国に背いてスパイをす

るという裏切りの犯罪」を告白した後、本当に彼は自殺したと示す。

20カ国で四半世紀以上を通し、暗殺と流血をともなう攻撃が900人以

上の一般市民を殺すか負傷させた傭兵、アブ・ニダルの最期が、2002

年9月サダムの「大統領統轄機密情報部」のために作成された一組の情報

記録で明らかにされる。エジプト人とクウェート諜報機関職員らがアブ・

ニダル、本名サブリー・ハリル・アル・バンナーに、彼らのためにアメリ

カのかたき役の情報を探るよう求めていたと記録は述べる。身を隠してい

た街のアパートにイラク諜報員が到着した後、アブ・ニダルは自殺したと、

彼の死から5日後、イラク諜報局長官タヒール・ジャリル・ハブッシュは

バグダッドの記者会見で語った。だが、悪名高いパレスチナ人が不自然な

死亡より前に長い一連の尋問に耐えていたのを機密の報告が明らかにす

る。このやりとりの記録は決して公表されることを意図したものでなく、

サダムのためにイラク「特殊情報部隊 M4」によって書かれていた。アブ・

ニダルは尋問官にウソをついているかもしれないが、報告に拷問は言及さ

れない、イラクでの彼の任務が何であるかイラク人たちが信じた内部の話

にこの記録は率直であるようだ。記録は彼の「調教師」としてクウェート

を支配するアル・サバーハ家の一員であるクウェート人特殊部隊長の名を

あげる、そして彼もまた「イラク内外のテロ行為を実行する」役目を課さ

れたとはっきり述べる。イラクでの彼の存在が、「イラクはテロリスト組

織をかくまってきていたとの口実をアメリカ人らに提供することになる

だろう」と記録にはある。

「暗号化されたメッセージはイラクにアルカイダ分子がいたかどうか捜

し出すようクウェート人が彼に遠回しに頼んだしるしである。彼に不利な

データについて尋ねたときアブ・ニダルが理性のない答えで彼のふるまい

を軽減しようとし出したとき、われわれの結論は確認された。特定の問題

ではなく歴史的物事に触れることで彼の答えを脱線させようと試みた。彼

は短くてあいまいで不明瞭な返事から一般的なことに進んだ、彼は動揺さ

せられてるようだと調査員によって書き留められた。だがひとたび、エジ

プト人諜報員と協調するアメリカ人とクウェート人両方の諜報組織との

彼の共謀に関係する彼に不利な証拠の重要さを確信するようになると、こ

のまともな国に対しスパイするという彼の裏切りの犯罪が暴かれたのを

彼は了解した。」

イラクにとってアブ・ニダルはよそ者ではなかった。政権が彼を「金で雇

う殺し屋」として使いたがったとき、バグダッド、ダマスカス、リビアの

首都トリポリから彼は仕事をしてきた。この暗殺未遂がきっかけでイスラ

エルにヤセル・アラファトに責任があると非難させ破滅的なレバノン侵攻

を始めさせた、1982年のイスラエルの駐ロンドン大使シェロモ・アル

ゴブに対する攻撃を組織するのに彼を雇ったのはイラクだった。そして後

にカダフィ大佐がアブ・ニダルと親しい関係を確立した。1985年、彼

の異常な殺し屋どもがローマとベニスの空港でイスラエルに向かう乗客

を攻撃して全部で18人殺した。アブ・ニダルがイスラエルの諜報機関モ

サドのために働いた時期もあったと示唆する、彼の伝記作家パトリック・

シールは、彼自身の軍隊で裏切りを恐れたときどうなるか、スパイ容疑者

は生き埋めにされて何日もチューブから食事を与えられ、もしアブ・ニダ

ルの「法廷」が死がふさわしいと思えば、チューブに沿って弾丸が発射さ

れることになると書いている。

サダムの秘密警察の手にかかる彼自身の尋問は、ゆえに、ひどく残酷な男

に同じ程度にふさわしい懲罰のように思えてくる。イラク諜報機関の記録

で彼が非難された数ある犯罪の中に、スイスやオーストリアなど外国人に

向けられる14個のスーツケースに仕掛けられた爆弾製品があった。諜報

機関のファイルによると、米国が「安全な聖域」を支援する時期にイラク

の北部クルド人地区で、そして西岸とガザでイスラエルによって負傷して

バグダッドの病院で回復していたパレスチナ人の間で、いわゆる彼のファ

タハ革命評議会に新メンバーを入れる試みがあった。

記録には奇妙な事と報いられない疑問がある。たとえば、早くからイエメ

ンの偽造パスポートでアブ・ニダルは独創的にイランからイラクに潜入し

たが、これはクウェートのナビル・ウサマンという名の彼の代理人が事を

容易にしたとある。アブ・ニダルはクウェートとはレバノンとドバイ経由

で送られる暗号化されたメッセージを通して連絡を取っていると言われ

た。彼は1937年に当時パレスチナだったヤファで生まれたと考えられ

ている、報告書には彼の誕生日は1939年とあり、1984年彼はリビ

アに住んだが「リビア当局者と関連はなかった」とはっきり述べる。彼は

また2カ月間エジプトの治安部門によって拘束されてきていると述べる。

バグダッドでアブ・ニダルに「安全な隠れが」を提供したと言われる男が

パレスチナ人といっしょに2002年に尋問され、アブダルカリム・モハ

メッド・ムスタファと名指して呼ばれる。

イランの諜報部門が必ずや彼を尋問しているはずのイランからアブ・ニダ

ルは本当にイラクに潜入できたのだろうか?サダムの秘密警察ムハーバ

ラートに見つからずにイラクのバース党の領土でアブ・ニダルは身を潜め

て暮らすことができるものか?そしてどのくらいの間、彼は尋問されたの

か?この3つの疑問に記録文書は答えていない。

しかしながら、彼の最期は寒々と記録される。「尋問の手順を続けるため、

もっと安全な場所まで彼のガードを任されている者たちの同行を口にさ

れて、彼は服を着替えさせてくれと要求した。寝室に入ると彼は自殺した。

彼を蘇生させる試みは失敗した ...」アブダルカリム・ムスタファの運命に

ついては、「法廷に持ち出された」というだけでなにもわからない。だが、

私たちにはアブ・ニダルがいまどこに横たわっているかはわかる。

「サブリー・アル・バンナーの遺体は2002年8月29日、アル・カラ

フのイスラム教墓地(バグダッド)に埋葬された」と最終記録は締めくく

る。最後の休息所(墓)が見つかるまで埋葬の場所は標識で示され、「 M7」

としての写真はもちろん、ヴィデオで詳細に記録された。この残虐な男の

「最終の休息所」は見つかってこなかったようだ。

◇テロの歳月:ビン・ラディンと同じく恐れられた男

アブ・ニダルはかつてオサマ・ビン・ラディンと同じくらい恐れられた。

彼の最も悪名高き攻撃には以下のものが含まれる:

1978年、彼の「黒い6月」運動はロンドン、パリ、マドリード、ブリ

ュッセル、クウェート、ローマでの PLOメンバー殺害に責任があると責め

られる。

1982年、イスラエルの駐ロンドン大使シェロモ・アルゴブがメイフェ

アホテルで撃たれた、彼は永久に麻痺したままになる。

1984年、ヨルダンの定期旅客機がアテネを離陸する際、ロケット弾で

攻撃される。暗殺には在アテネ英国文化大使館員と在ムンバイ英国高等弁

務官代理が含まれる。

1985年、エジプトの定期旅客機がハイジャックされる、乗客6人が殺

されてエジプトの突撃隊が航空機を襲撃したとき60人が殺された。

1985年、ウィーンとローマ空港のエルアル航空券デスクで殺し屋ども

が18人を皆殺しにして120人負傷させた。

1986年、イスタンブールのシナゴーグ(ユダヤ教礼拝堂)でマシンガ

ン攻撃が22人を殺す。パンナム73便がカラチでハイジャックされたと

き、少なくとも20人の乗客と乗員が殺された。

1988年、殺し屋どもがギリシャのポロス市のクルーズ船を攻撃したと

き、9人が殺され98人が負傷した。

1991年、チェニスで PLO副議長アブ・イヤドとPLO警備部長アブ・

フルを暗殺した。

1994年、レバノンでヨルダン外交官の暗殺テロ。

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■アブ・ニダルが自殺した■

アブ・ニダルはパレスチナのゲリラで、本格的なテロリストだった。今日

のようにひんぱんに軽々しくメディアに登場する以前の、殺人マシーンと

もいえる冷酷無比なテロリストであった。

アブ・ニダル、本名サブリー・アル・バンナーとは、どんな人物だったか。

彼は、フランス、シリア、トルコに別宅があるほどのパレスチナで最も裕

福な家庭に生まれ育った。だが1947年、イスラエルの建国によって一

家の土地はイスラエル政府によって接収され、家族はガザ地区のアル・ブ

ルジュ難民キャンプに追われることとなった。

1955年、カイロ大学工学部に入ったものの2年で除籍となったサブリ

ーはナブルスに戻り教師として働いた。

サウジアラビアで政治に関心を持ち、バース党に入党、1965年に創設

されたファタハに加入するが、サウジ当局の目にとまり国外追放される。

帰国後第三次中東戦争に巻き込まれ、イスラエル軍がナブルスを占領する

のを目の当たりにし、反シオニズム運動に加わった。

イスラエル当局のファタハ摘発でヨルダンのアンマンに移ったサブリー

は、ここでアブ・ニダル(闘いの父を意味する)の名前を使い始める。

PLOパレスチナ解放機構のヤセル・アラファトの側近の庇護を得て頭角を

現し幹部にまで昇進する。1969年、ファタハ代表部開設のためスーダ

ンに派遣されるが、過激な行動のせいでイラクに移される。そこで彼がイ

ラク当局と密接な関係を確立したことがファタハ指導部との対立を深め

る。アラファト議長ではイスラエルは倒せないと判断したアブ・ニダルは

イラク当局の支援のもと、1974年 PLOの反主流派として自分の名前を

冠したアブ・ニダル(組織)を設立した。

パレスチナのテロリズムの系譜は1967年の「6日戦争」に発すると言

ってもいい。この戦いはイスラエルの全面勝利に終わり、パレスチナはも

っと多くの領土をイスラエルに取られてしまう。その結果、絶望し怒り狂

ったパレスチナ人が反イスラエルの地下活動に加わっていく。

なかでもアブ・ニダルの名を世間に知らしめたのは1982年、イスラエ

ルの駐ロンドン大使シェロモ・アルゴブを襲撃したときで、ロンドンの

名門ホテルのドチェスターの門前で仕掛けられるという大胆不敵ぶりだ

った。暗殺は未遂に終わったが、激怒したイスラエルが彼のアジトのあっ

たレバノンに侵入することで、イスラエルにレバノン戦争の引き金を引か

せた。

だが、これらの行動でアブ・ニダルは多くのパレスチナ人の喝采を浴び、

支持を広げていく。この追い風を受け、ユダヤ人を狙って中東からトルコ、

ギリシャと行動範囲を広げ、破壊活動はますます過激化していく。

パレスチナの過激派ゲリラにとった新たなターニングポイントは93年

のオスロ合意ではなかったか。ヤセル・アラファトの交渉が成果をみせ、

パレスチナ人が西岸とガザ地区に住むことを保障されたことでかりそめ

にも平和が合意され、過激派は立場をなくした。同時に、組織としてのア

ブ・ニダル・グループは財政的にも支持を失っていく。思想的な孤立と組

織の維持を抱えたアブ・ニダルの戦略は、この頃から大きく変化していく。

直接イスラエルを攻撃するのでなく、中東和平交渉を挫折させることに集

中していく。そのために彼は活動の舞台をレバノンやイスラエルから欧州

へ、ロンドン、パリ、ローマ、ウイーンへと展開していく。

そして財政を支えるために、汎パレスチナ思想を超えて国家的なテロや暴

力活動を請け負うようになった。

アブ・ニダルは宿敵イスラエルのためにも仕事をしたのではないかという

ウワサがある。イスラエルが長い戦いのあいだに敵のあらゆる組織の内部

に食い込み、スパイ、二重スパイを使っていたことは知られているが、彼

もそんなイスラエルの細胞であったとの強い説がある。

アブ・ニダルは PLOの最高幹部を暗殺している。PLOのアブ・イヤドは

西ドイツオリンピックのイスラエル選手団襲撃事件の首謀者でもあり、

PLOの最高幹部だった。アブ・ニダルはこのアブ・イヤドを暗殺した。襲

撃したのはボディーガードで、実はアブ・ニダルの構成員だった。

イスラエルには PLOを完璧に抹殺したいとの願望があり、当時のアリエ

ル・シャロン首相はこのことを公言してはばからないが、これはアル・ニ

ダルの本来の目的と合致する。裏にはモサドがいて、アブ・ニダルを操っ

ていたというもっともらしいウワサが流れたわけである。この時期、まっ

たくイスラエルを攻撃しないどころか、アブ・ニダルは同胞であるパレス

チナの穏健派を殺害し始める。

晩年のアブ・ニダルはイスラエルの契約暗殺者だった。そのことが PLO

の反発を誘い、だから彼は暗殺されたのだ、自殺ではなかったというのが

「アブ・ニダル暗殺説」だ。

▲参考資料:

・ JMM 2002年8月30日by オランダ・ハーグ在住 春 具

・ http://www.geocities.com/inazuma_jp/alfateh.html

・ Wikipedia


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