▼最後に残された最良の機会 ▼
by Nicole Karsin 04 May 2004 The Village Voice

ロリ・ベレンソン、ペルーの有罪判決を国際法廷に持ち込み控訴:
ペルーの苛酷な刑務所に9年近く閉じこめられたあと、自由を勝ち取る
チャンスが訪れる。34歳のニューヨーカー、ロリ・ベレンソンの問う
べき問題は(米国および中南米諸国の計26ヶ国が加盟する)OAS 米
州機構の一員にとり最高の法廷であるアメリカ大陸間人権法廷によって
コスタリカで審問されることになる。法廷には何も手を下さない選択肢
から、彼女を釈放するようペルー政府に命じる選択肢まである。

当初、ベレンソンは当時の大統領アルベルト・フジモリの抑圧的統治の
なか秘密軍事法廷によってテロの罪で終身刑を宣告された。1995年
11月、彼女はトゥパック・アマル革命運動という都会の左翼ゲリラ組
織のリーダーと申し立てられ逮捕された。そしてペルーの議会を攻撃す
る計画を立てるのを助けたと告発された。彼女はジャーナリストとして
働いており、知らずにトゥパック・アマルのメンバーにかつて暮らした
家のワンフロアーを又貸ししていたと言う。
2度目の裁判で彼女の刑は20年に減刑された。
昨年8月、ベレンソンはペルー北部地方カジャマルカにある独房のコン
クリートのベッドに座り、2千人以上の国内政治犯を擁護した。「政治
犯のことをモンスターと呼び、苦しむべきだと連中は言う」と彼女は言
った。「まだひどい目に遭うのが足らないとでも言うように。大部分の
人が拷問され、家族を殺され、少なくとも10年は刑務所にいるという
事実を意識して忘れている」
ベレンソンの当初の罪は反逆罪で終身刑。厳重警備の4つの異なる刑務
所で8年と5ヶ月投獄される。
1996年から98年、彼女は極寒の1万2千フィートの高地にあるヤ
ナマヨ刑務所に監禁された。
2000年まで、毎日独房から解放されるのがわずか30分という扱い
を頻繁に受けた。
1998年、彼女はソコバヨ刑務所でひとりぼっちの幽閉状態で4ヶ月
過ごした。
その結果、起きた健康上の問題:
レイノー病症候群(小動脈の収縮による血管障害)、寒さや高地に対す
る反動で彼女の両手両脚は腫れて青くなり、皮膚が切れて感染症を引き
起こす。慢性の敗血性咽頭炎。独房の暗さが原因の視力減少。高度とフ
ルーツや野菜不足が原因の胃腸障害。関節炎。
国際的勧告:
2002年7月、アメリカ大陸間人権委員会はペルーがベレンソンの権
利を回復すること、彼女が被ったダメージを金銭で補償すること、そし
て彼女や多数のペルー人に有罪判決を下した対テロ法を細密に検討する
ことを勧告した。これにペルー政府が応じないので、委員会はアメリカ
大陸間法廷にこの問題を取り扱うように求めた。
推移:
2003年、ロリは40歳の法科の学生で、彼もまたトゥパック・アマ
ルのメンバーとの嫌疑を受けた元政治犯アニバル・アパリと結婚した。
彼は15年の刑のうち12年を服役後、2003年6月仮釈放で放免さ
れた。二人は1997年ヤナマヨ刑務所で出会った。
国際法廷で証言する予定のロリの母、ローダ・ベレンソン:
「国際審問になるのに8年半かかると言われたら、そんなに長くは生き
られないと言っていたでしょう。私たちが言いたかったのは人権委員会
がやっと言ってくれたことです。ロリは2度裁判されましたが、どちら
もどんな国際基準も満たしていなかったということ、ロリはほとんどの
期間を残酷な状況下で収監されてきていること、ペルーは法律を変えて
誰からも尊重される国際基準に従う必要があるということです」
ペルー大統領アレハンドロ・トレド:
「フジモリ政権中、ずっと生きていた反テロリスト法は、憲法上の裁定
委員会によってしっかりと再検討されており、裁判のやり直しを求めら
れている。要するに私たちはそうしなければならなかったのです。ロリ
・ベレンソンの場合には現行の司法制度の下で正常な情況にある新しい
裁判を受けられた。そして彼女はずっと軽い罰に減刑されている。人権
への配慮ある正当なプロセスと民主主義制度を備える今日の事情の下で
彼女は裁判されている」
国際法廷で控訴する彼女の代理となって助ける、元合衆国司法長官ラム
ゼイ・クラーク:
「ロリ・ベレンソンにとって自由と正義の問題とは、もちろん、ペルー
の司法制度の清廉さが危うくなっていることです」

▼コスタリカ▼ ジャーナリスト、伊東千尋のメールマガジンより 
August 2002

中米の3カ国で内戦が起きていた1980年代半ば、私はニカラグアか
ら陸路でコスタリカに入ったことがある。当時のニカラグアは、米国が
支援する右派ゲリラと左翼政権との内戦が真っ盛りだった。
戦争のせいで予算が軍事費にとられ修理ができないために、太平洋岸に
沿って走るパンアメリカン・ハイウエーは穴だらけでデコボコだった。
道は狭く、両側の畑は荒れ放題だ。綿花やサトウキビの畑だったことが
枯れた木や畝の状態からわかるが、手入れを忘れられてからだいぶ日が
たっている。荒れ地の中で牛が草を食べている。牛に至ってはあばら骨
が見えるくらいガリガリにやせている。
■地獄から天国へ
やがて国境を越え、コスタリカに入った。とたんに風景は一変した。ま
ず、道幅が一挙に数倍増えた。さらに、車がまったく揺れなくなった。
日本の首都の高速道路のようなアスファルトで、滑るように走る。道の
両側に畑があるが、そこには青々と作物が茂っている。牛が丸々と太っ
ている。地獄から天国に来たような開放感を抱いた。
この違い。それが戦争と平和の違いなのだ。今、日本からコスタリカを
訪れても、とくに目先に何が見えるというわけでもない。しかし、戦争
の国から平和な国に入るとその差は歴然としていた。
■兵士の数だけ教師を
この国が平和憲法を施行したのは1949年。内戦、といってもたった
6週間だが、これで約2千人が亡くなったのを機に、軍隊を廃止するこ
とにした。憲法12条は「恒久的制度としての軍隊はこれを禁止する」
と謳う。驚くのはそのあとで、「兵士の数だけ教師を」を合い言葉に、
それまでの軍事予算を教育予算に変えてしまったのだ。以後年間予算の
3分の1が教育費に充てられている。開発途上国で教育にこれだけの予
算を割くなど、ほかに例はない。この結果、中南米としては識字率がひ
ときわ高い教育国家ができあがった。それも単に読み書きできるという
程度でなく、高度で実践的な民主主義教育を行っているのだ。
■「永久非武装・積極的中立」を宣言
その後も、日本のように平和憲法があるからそれでいいと放っておいた
わけではない。中米紛争が激化した1983年には、当時のモンヘ大統
領が「永久非武装・積極的中立」を宣言した。私は2002年2月、首
都サンホセ郊外の別荘で同氏に会った。
モンヘ氏は「コスタリカは貧しい国だ。教育と発展か、軍を持つか、ど
ちらかを選ばなければならなかった。だから教育を選んだ。積極的中立
とは、人権を守り紛争を解決するため、調停や仲介などの行動をとるこ
とだ。私たちは軍を持ってないからこそ、それがやれた」と力説した。
さらに、「米国防総省とCIAのエージェントが来て、中立宣言をやめ
るか延期するよう要求した。私は断った」と述べ、同宣言のさい、米国
から圧力があったことを明らかにした。
アメリカという国は、中米を自分の裏庭のように考えている。民主主義
の見本のように思われているが、アメリカの思い通りにならない国があ
ると海兵隊を派遣して侵略するのがこの国のやり方だ。アメリカに従う
なら独裁政権でも構わないという哲学で、実際に、南米チリでは民主主
義で選ばれた社会主義政権に対し、アメリカはCIAが工作して、軍を
クーデターに駆り立て、ピノチェット軍事独裁を支援した過去がある。
当時、コスタリカの隣国ニカラグアで内戦があったことはさきほど述べ
たが、政府に敵対するゲリラの軍事、資金援助のいっさいの面倒を見て
いたのがアメリカだった。アメリカ政府は、左翼ゲリラなら「テロリス
ト」と呼ぶが、右派ゲリラは「英雄」と呼ぶ。普遍的な正義によるので
なく、自分たちに都合の良い解釈をするのが、この国の流儀だ。
アメリカのコスタリカへの介入はその後も続いた。対外債務に悩んでい
たコスタリカに対し、無償で国境地帯に空港をつくってやるから使わせ
ろという提案もした。そのような空港は、米軍がニカラグアのゲリラを
支援するためのものであることは明らかだ。こうしたアメリカの申し出
を受け入れるかどうかをめぐって1986年の大統領選はもめた。その
とき拒否を主張して勝利し、大統領になったのが、後にノーベル平和賞
を受賞するアリアス氏である。
アリアス氏は、政治家とは何であるかを身をもって示した。ニカラグア
など周囲の国々の内戦を終わらせようと周辺諸国を駆けめぐり、政府と
ゲリラ双方を説得して、ついに紛争を終わらせたのだ。それが1987
年のノーベル平和賞受賞の理由となった。
彼の発想は「隣が戦争をしていれば、いつか火の粉が自分の国に降りか
かる。自国を平和に保ちたいなら、隣の国の戦争を終わらせることが必
要だ」ということだった。このため平和外交を展開した。隣国の火事を
消す「国際火消し」をやったのだ。
■小さい頃から民主主義教育
コスタリカの学校の教科書を見ると、その充実ぶりに驚く。とくに社会
の「公民」はすごい。民主主義とは何かを言葉で示すだけではない。た
とえば生徒が大きくなって勤めた職場で解雇されたと想定して、どうす
ればいいのか、憲法はどう国民を守っているのか、憲法のどの条項をど
う主張して解雇撤回を会社に迫るのか、などとまことに実践的な教育を
授業でやっている。それも先生が教える一方なのでなく、生徒が自分で
調べてそれを発表するのだ。こうして法律は身に付く。
■平和は日々つくるもの
ノーベル賞の賞金で設立されたアリアス平和財団の女性専務理事ララ・
ブランコさんを本部に尋ねた。彼女は「平和は日々、創るものです。コ
スタリカは軍を廃止し、軍事予算を他の分野に回したことが、その後の
発展の基礎になりました。今は非武装と軍縮を二つの目標に、武器の売
買の禁止などの運動をしています」と語った。
ブランコさんは米国でのテロに触れ、「武器の国際取引がなかったら、
ビンラディンの活動もなかったでしょう。米国ではテロで多くの人が死
にましたが、貧しい地域で日頃どれだけの人が死んでいるかも忘れては
なりません」と主張した。
今は女性の権利向上や隣国ニカラグアの女性への識字教育に力を注ぐ。
ここにも教育や民主主義こそ平和の基礎だという基本的な考えがうかが
える。
■キーワードは対話
なぜコスタリカのような小さな国が軍隊なしでやっていけるのか。それ
を国際法律大学のカルロス・バルガス教授に問うた。
「答えは簡単です。民主主義をうまく実践してきたからです。だれもが
教育を受け、富に近づくことができます。人権が保証され、子ども、女
性、お年寄りが社会に参加でき、社会保障が整っている状態。それが私
たちの考える民主主義です」
「民主主義を維持するのは大変でした。様々な危機を乗り越えて理想を
実現してきました。それを可能にしたのは、常に対話の道を通じたから
です。対話で紛争を解決し、人権を重視する。差異を認めながら対話を
続ける。対話こそキーポイントです」
バルガス教授は同じく平和憲法を持つ日本に触れ、「日本は唯一の原爆
の被害国です。日本が中立宣言することによって、理想を他の国に広め
ることができます。日本が音頭をとってアジアに人権裁判所を作るなど
アジアに人権を輸出してはどうでしょうか」と問い返した。
■弾丸ではなく投票を
そもそも憲法で軍隊を廃止しようとした立役者、半世紀前の政治家で、
「国父」と呼ばれる故ホセ・フィゲレス夫人のカレンさんは熱い口調で
こう言った。
「平和とは単に戦争のない状態を指すのではありません。行動を伴って
こそ平和になるのです。私たちはバラス(弾丸)でなくボトス(投票)
を選びました。平和を願うなら闘わなければなりません。単に"平和主
義者"でなく、非暴力での闘いをすべきです。実現しましょう。夢を」