■戦争の犠牲者 
ツケが回ってくる とんでもない戦争■
ガゼット紙 26、28 July 2009
By Dave Phillips

現在、第4歩兵師団の第4旅団戦闘班と呼ばれる兵士3500
人のマルケスの部隊はイラクの最もむごたらしい場所で戦い、
フォートカーソンのどの部隊の犠牲者より断然多い人的被害を
こうむっていた。2006年以降、帰還したその歩兵の10人
が逮捕されて殺人か殺人未遂、または故殺で起訴されてきてい
る。他は自殺しているか自殺しようとしてきている。殺人に取
りかかる前、アンソニー・マルケスのママは息子がすぐにも殺
せる用意をしていると警告するため、フォートカーソンの息子
の軍曹にダイヤルした。

それは2006年2月だった、そして21歳の兵士は8ヶ月前
に負傷してイラクから帰還して以降、同じ人間ではなかった。
彼にはどっと出てくる凶暴さと悪夢にのたうちまわることがあ
った。彼は痛み止めのクスリをむさぼり食い、酒を飲み過ぎた。
彼は常に銃を携行した。

「危険な組み合わせでした。彼は歩く時限爆弾だと彼らに言い
ました」と彼のママ、テレサ・ヘルナンデスは言った。

彼の軍曹はできることは何もなかったと彼女に伝えた。そうし
て軍曹は「おまえのマミーが大声で言ったぞ。おまえは気が狂
うんだと。」みたいなことを言って彼をからかいだしたと彼女
は言った。

8カ月後、息子が1オンスのマリワナのことでワイドフィール
ドのけちなヤクの売人をたまげさせるのに繰り返しスタンガン
を使ったとき、時限爆弾が破裂した、そうして彼の心臓をぶち
抜いた。

マルケスはイラクから帰還した後、彼の大部隊で誰かを殺した
最初の歩兵だった。だが、彼が最後ではなかった。

世界で一番危険な仕事のひとつに志願したとき、兵士のほぼ全
員がビールを買うには若すぎるほんのガキだった。ほぼ誰にも
重大な犯罪歴はなかった。多数が善行のメダルを授与された。

だが、イラクの戦いのひどい混乱とはっきり敵が見えないなか、
訓練は完全に失われたと多数が言った。虐殺が人生の一部にな
った。防弾服を着た兵士らは一世代前に戦士を殺していたはず
の戦いに幾度となく舞い戻った。規律が低下した。拷問やイラ
ク人一般市民の殺しが兵隊たちに潜んだと兵士らは言う。そし
て戦闘の感情的傷手を辛抱するコロラドスプリングスにこの兵
士らが帰還した時、ある兵士は無視され、ある兵士は軽視され、
ある兵士は捨てられ、ある兵士は罰せられたと兵士たちは言う。

ある兵士は殺し続けるーーコロラドスプリングスでの今回。

その兵士の多くがいま刑務所にいる、だが、独房の壁を超えて、
陸軍の範囲さえ超えて、彼らの苦難はまだ十分広がる。彼らの
部隊は5月に再配備された。今回はカイバル峠に近いアフガニ
スタンの最も危険な領域のひとつへ。

今月、フォートカーソンは、兵士の犯罪で共通の筋道を探る行
動健全特別調査団と陸軍の専門家らによって126ページの報
告書を発表した。戦闘の強度、助けを求めることに対する長年
にわたる不名誉、アルコール・麻薬濫用での欠点、メンタルヘ
ルス治療薬、これらが「悲観的はけ口」で一点に集まっている
かもしれないが、さらなる調査研究が必要とされると彼らは結
論づけた。

最新のプログラムが作られる前に逮捕されたマルケスは、イラ
クに行かなければ自分は引き金など引かなかったと言った。

「通りにいるだけの男だったら、撃つのをためらっているかも
しれない」と、30年の刑に服しているベント郡懲正施設(刑
務所)で同席した今年の春、マルケスは言った。「でもイラク
の後、撃つのはまったく普通だった。」

さらなる兵士による、さらなる殺しが続く。

2007年8月、ルイス・ブレスラー24歳はコロラドスプリ
ングスの通りで拾った兵士から強奪して、撃った。

2007年12月、ブレスラーと仲間の兵士ブルース・バステ
ィン・ジュニア21歳とケニス・イーストリッジ24歳は、弾
丸で穴だらけにした彼らの部隊の兵士の死体をウエストサイド
の通りに置き去りにした。

2008年5月と6月、ルドルフ・トレス・ガンダリラ20歳
とヨマル・ファル・ヴィヴェス23歳が突撃銃を持ってクルマ
を乗り回し、人々をランダムに撃ったと警察は言う。

2008年9月、ジョン・ニーダム25歳が元ガールフレンド
を殴り殺したと警察は言う。

殺しの大部分が、第2大隊第12歩兵連隊と呼ばれる大部隊内
の兵士500人、みずからを「死の戦士」のニックネームで呼
ぶ、ただ一個の部隊の兵士だった。

戦闘配備後、フォートカーソンの他の部隊の兵士らが犯罪にか
かわってきている、エルパソ郡の刑務所に登録される軍人の名
前がイラク戦争開始以降3倍、だが他の部隊には第4旅団の兵
士ほどどえらい記録はない。旅団の兵士の大多数は犯罪を犯し
てきてないが、その数はあまねく全住民のはるか上をいく。
2007年の秋から2008年の秋までの一年間、500人の
死の戦士の殺人率はコロラドスプリングスの殺人率の114倍
だった。

大隊は圧倒的に、人口統計学的に米国で最も高い殺人率の若い
男子で構成される、だが、旅団はそれでもなお全体として若い
男子の殺人率の20倍ある。

殺人はそれはいっぱいあふれた犯罪のピラミッドのヘッドライ
ンをつかむ先端にあるだけのこと。2005年以降、旅団の帰
還兵らは、けんか騒ぎ、ぶち負かす、レイプ、飲酒または麻薬
の影響下の運転、ヤクの取引、家庭内暴力、狙撃、突き刺す、
誘拐、自殺などにかかわってきている。

マルケスのように、投獄された兵士の大部分が戦闘の後、故郷
に戻った人生に適応しようと苦闘した。マルケスのように、多
くが最後には刑務所行きとなる前に大きくなる悩みの種の兆候
を示した。マルケスのように、全員が暴力の原因について難問
を持ち出す。

歩兵連隊がある男たちを人殺しに変えたのか、それとも人殺し
が歩兵連隊を見つけ出したか?陸軍が犯罪者に導いたのか、そ
れとも戦闘でずたずたになった兵士が犯罪癖に陥ったか?フォ
ートカーソンが兵士らの面倒を見るのを怠ったか、それとも兵
士らが提供された配慮を利用しそこなったのか?

そして最も重要な、旅団がいまアフガニスタンにいる故に、暴
力が再現されるのを防ぐ方法はあるか?

殺人で混み合ったフォートカーソンの指揮を執り、帰還兵の扱
い方について著しい変化を命じたマーク・グラハム少将は、そ
うであるよう期待すると言った。

「問題を認めるとき、われわれはその正体を特定し、それにつ
いてわれわれにできることを実際に身につけようと努める。
それが、われわれがここでやろうとしていること」だと6月の
インタヴューでグラハムは答えた。「変化を必要とする文化と
不名誉がある」と。

彼の指揮下で、大佐から二等曹長まで、ほぼ全員がいま感情的
ストレスの兆候を示す軍隊を助ける訓練をうける。フォートカ
ーソンは行動健全カウンセラーの数を二倍にして、どんな理由
であれ兵士が軍医を訪れる局面に対し、病院の規則を強化して
きている。足首のねんざであっても、メンタルヘルス評価なし
には出られない。グラハムはまた、戦争から本国まで兵士の送
還を軽減するための新たな陸軍プログラムのための実験場とし
てフォートカーソンを自発的に提供してきている。

殺人幇助で現在10年の刑に服している歩兵のスペシャリスト、
イーストリッジは、イラクの汚点をぬぐい去るにはかなりかか
るだろうと言った。

「陸軍はこうなるようあんたを訓練する。銃剣訓練では軍曹が
大声でどなる“草を成長させるのは何だ?”と、そしてダミーを
突き刺しながらオレたちは大声で言う、“血!血!血!”とね。
だれでもみな殺せ、だれでもみな殺すんだ、それが本能になる
まで、陸軍はあんたの頭に繰り返し教え込む。そしてあんたの
本能になる。それから彼らは帰国するだけであんたがそれを消
せると考える、、、殺す訓練を受けた兵士らをどう面倒見るか、
彼らが見つけ出さないと、これはただ起こっていくだけだ。」

サタンの王座
2004年9月、大部隊が着陸したイラクのスンニ派三角地帯
で暴力が根付き出した。

「実に美しかった。たくさんのヤシの木があった」と、陸軍に
入隊する前、実際一度もほかのところに行ったことがなかった
ケンタッキー出身の労働者階級の子、イーストリッジは言った。

だが、「状況は見苦しかった」と彼は言った。

主要な戦闘作戦の終わりを発表するため、ジョージ・W・ブッ
シュ大統領が航空母艦の「任務完了」のバナー(横断幕)の前
に降り立ってから一年あまりだった。だが、状況はどんどん悪
くなっていた。ライバル同士のスンニ派民兵とシーア派民兵が
力を増していた。略奪が都市を無能にしていた。そして戦線や
敵が明確でない戦争で、毎月の米兵の死亡者数の平均は一年前
から25%上昇した。

旅団はその最悪を受けることになっている。

マルケスをなにも悩ませない。

彼はハイスクールではフットボールチームのキャプテンの片割
れで陸上競技を走っていた。卒業後、銃とヘリコプターで満載
の陸軍のコマーシャルはまるで世界で最もクールな仕事に見え
たので、彼は歩兵に加わった。

イーストリッジは同じように感じた。後に殺人で逮捕された兵
士のグループの犯罪者に彼は最も接近していた。コカイン中毒
の母といっしょに成長した後、自分の人生をなんとかコントロ
ールしようとした。彼は12歳のとき、父親のアンティークの
ショットガンで遊んでいて偶然の事故で親友の胸を撃った後、
無謀な殺人で逮捕される。彼は罪を認めて、カウンセリングを
受ける刑を下された。その後、彼の犯罪記録は消えていた。

新兵補充人から権利放棄証書を手に入れないと重罪犯罪人は陸
軍に入れない。「若いの、おまえさんにチャンスをくれる誰かが
必要みたいだな」と言われるまで、たくさん電話をかけたとイ
ーストリッジは言った。

マルケスのようにイーストリッジは歩兵に入りたがった、なぜ
なら、「あらゆる(畏怖させる)すごいことをあんたにさせると
ころ」だからと彼は言った。

基本訓練の後、陸軍は二人の男を韓国に送った。

マルケスは第1大隊第9歩兵連隊、イーストリッジは第1大隊
第506歩兵連隊と、二人は第4旅団戦闘班となるものの異な
る大隊にいた。どちらも歩兵だった。どちらも若くてばかみた
いにがむしゃらな戦闘経験のないGIに囲まれていた。そして
2004年の春、どちらもイラクに行くことになると知った。

「オレらはクールだと思った。オレらが兵役の申告登録をした
のはそのためだった」とマルケスは言った。

まったくクールでないのがわかった。

マルケスが着陸したラマディにはコロラドスプリングスの規模
の住民数がいたが、法と秩序をじゃましない、頼みになる供給
電力はなかった。下水汚物が瓦礫でふさがった通りに殺到した。
気温は時々華氏120度まで上った。

そして道端に仕掛けられた爆弾が一般市民をこっぱ微塵に吹き
飛ばすとき、野生化した犬の群れがその破片をめぐりけんかし
たと兵士らは言った。

当時そのエリアで軍にぴたり埋め込まれたドキュメンタリー映
画作家のパット・ドラードは、まるで「サタンが地球の表面に
穴を開けて、王座をどすんと降ろして商売をはじめた」ようだ
ったと書いた。

マルケスは街でテロリストを追跡するため割り振られた。イー
ストリッジはラマディとファルージャ間のハイウェーをパトロ
ールした。彼と一緒だったのが、後に人殺しでイーストリッジ
と共に逮捕された、おとなしくてフレンドリーな砲兵隊員、ブ
レスラーだった。

任務が近づくことは通常、土ほこり色の迷彩服で家から家をど
かどかと歩くことを意味し、絶え間のない暑さと戦うため水と
ライフル、ピストル、防弾服、弾薬、手榴弾をどっさり詰め込
んだ。

兵士らは昼夜出かけた、そしてドアをノックし続け、時々ドア
を蹴破った。彼らは検問所を設置した。彼らは兵器を押収した。
彼らは疑わしい暴徒に関して強そうな若者を急ごしらえした。
彼らはめったにテロリストを見つけなかった、だがテロリスト
は彼らを見つけた。

戦闘配備になって数日、スナイパーの弾丸がマルケスの中尉を
殺した。それから別の友人がクルマ爆弾で死んだ。そしてまた
ひとり。

彼らは前線で戦うので戦闘大部隊は常に残りの陸軍より高い犠
牲者を引き受ける、だが、その基準から見ても、兵士3500
人の大部隊はさんざん打ちのめされた。フォートカーソンによ
ると、一年間続く遠征で、64人が殺されて400人以上が負
傷した、それはイラクとアフガニスタンに展開している陸軍大
部隊全部の平均の2倍だ。

暴徒が彼らの巧妙な手口を学んだとき、攻撃はもっとぞっとす
るものになった。

爆発物を搭載したトラックがイーストリッジの小隊のなかにす
ごいスピードで進み、彼の班長を殺し、彼の小隊の二等曹長に
こぶし大の穴をあけて、燃えているエンジンが部隊の最年少者
ホセ・バルコを押さえつけた。

兵士を殺すつもりの爆弾はエリアの誰であれ微塵に引き裂いた。
女性たちは腕をもぎ取られた。道路脇の老人は肉に変わった。

「ただむかむかして吐き気を催した」と19歳の兵卒でイース
トリッジの親友のデイヴィッド・ナッシュは言った。「街にはボ
クらに向けてかなりの量の憎悪があった。」

歩兵の仕事のひとつは、宗派にからんだ人殺し分隊によって夜
中通りに投げられるイラク人の死体を確認することだった。

「朝まず第一にオレたちがするのが死体の確認」とイーストリ
ッジは言った。「両目にドリルの穴があいてるやつ。頭部にクギ
があるやつ。」

イーストリッジはスナイパーに2度標的にされたと言った。
どちらの弾丸も壁に激突し、顔に肉薄するあまり彼の目に砂を
浴びせた。彼は自分の運を笑い飛ばした。彼は兵士でいるのが
大好きだった。

2005年2月、対戦車地雷の上を走ったときイーストリッジ
は彼のハムヴィー(陸軍の高機能多目的装輸車輌)の砲塔にい
た。大音響の瞬間がクルマの前面を引きはがした。数分後イー
ストリッジはいぶるクレーターから数フィートのところで目を
覚ました。

彼は苦痛をこらえた。彼は包帯を当てられて警戒兵に送り返さ
れる。脳の分泌液が耳から漏れ出ていたと彼は言った。

それが歩兵の仕事だった。イーストリッジの大隊は第二次世界
大戦で創設されて、「バンドオブブラザーズ」として知られるよ
うになった。Dデイにノルマンディにパラシュートで投下して
バルジの戦いで戦った。ヴェトナムではテト攻勢を阻止してハ
ンバーガーヒルを取るのを助けた。

過去の栄光の顛末を聞いた男たちがイラクで彼ら自身のチャン
スをつかむことはほとんど一度もなかった。敵はそれとわから
なかった。主な死亡原因は隠れた道端の爆弾だった。

時々、マルケスは彼の唯一の目的が隠れた爆弾を片づけるため
ブラッドリーと呼ばれる装甲兵員輸送車で道路を行ったり来た
りすることだと感じた。

緊張をほぐすため、兵士らは何時間も撃ちまくるビデオゲーム
をやって過ごした。彼らはヴェトナムでの彼らの部隊をベース
にしたゲームでも遊んだ。それは解放をもたらしてくれたと彼
らは言った。彼らは明確に定義を下された敵に直面することが
できた。彼らは撃つことができて、適切でりっぱな連中がいた
とわかる。彼らは勝つことができた。

ラマディでマルケスと他の兵士らは、彼らが負けているみたい
に感じたと言った。

「オレたちが長くいればいるほど悪くなるように思えた」と第
1大隊第9歩兵連隊のマルケスの友だち、ダニエル・フリーマ
ンが言った。

フリーマンは道端の爆弾によって意識不明になった、だが最も
厄介なことは、得体の知れない静けさを走り抜けることだった、
そして仕掛け爆弾(improvised explosive device)またはIED
が警告なしにハムヴィーに乗る兵士すべてを殺すことができた
か、たぶんトラックのひとりは消されるかもしれないとわかる
こと、そして他の連中をどうしてこんなことになったのかと思
わせることだと彼は言った、そしてなぜか彼らは生き残った。

兵士と地元民とのあいだで憎しみ(恨み)と不信(疑惑)が今
にも爆発しようとしていた。ある日彼らに手を振った地元民が、
翌日彼らがIEDに向かってクルマを走らせたとき、黙って見守
る。

規律が壊れはじめたと兵士たちは言った。

「終焉に向かってオレたちはそれは血迷っていて、へとへとで、
くじかれていた」とフリーマンは言った。「あんたらがあんまり
近づきすぎると、オレたちはあんたらに火を付けた。あんたら
が止まらないと、オレたちはブラッドリーであんたらのクルマ
をひいた。」

兵士らがIEDによってやられると、彼らはマシンガンと擲弾筒
をあらゆる方向に狙い撃ちしようとしたとマルケスは言った、
そして「エリア全部に火を付ける。もし誰かがまわりにいたら、
それはそいつらのせいだった。オレたちは連中を燻製にした。」

彼らは無差別にクルマを撃って、一般市民を殺したと、他の兵
士たちが言った。

「まさに野放しだった」と遠征の後PTSDで医学上除隊させら
れたイーストリッジの友人、21歳のマーカス・ミフリンは言
った。「あんたが間違ったことをしたのを誰かが完全に確信でき
ないかぎり、あんたは非難されなかった。そしてそれは難しか
った。それで事態は起こった。タクシー運転手が理由なく撃た
れた。男連中が誘拐されて橋まで連れていかれ尋問されて落と
された。」

後にワイドフィールドのヤクの売人に使ったのと同様のスタン
ガンを彼はイラクで手に入れたと、マルケスの殺人を調査する
エルパソ郡の保安官代理に兵士たちは後で告げた。イラク人を
「乱暴に扱う」のに彼はそれを使ったと彼らは言った。

スタンガンはジュネーブ条約で禁じられる。それを使うのは戦
争犯罪だが、多くの兵士がインターネットでスタンガンを注文
し、襲撃に持ち歩いたとガゼット紙がインタヴューした4人の
兵士が言った。大部隊は遠征中に任務に就く他の兵士らをイン
タヴューに使えるようにするのを拒んだ。陸軍は2年後に懲戒
の記録を破棄すると言ったので、部隊の兵士らが処分されたか
どうかについて何の知識もない。

10カ月後、彼がしたいのは帰国することだけだったとマルケ
スは言った。

2005年6月、余すところ一カ月で、親友のヘルメットの下
の頭蓋骨をスナイパーの弾丸が貫通したとき、彼の小隊は野原
を徒歩で渡っていた。

小隊は銃と擲弾筒を旋回して「その近所を根こそぎにした」と
マルケスは言った。

その夜、マルケスは撃たれた。別の任務に呼び出されたとき彼
の分隊はブラッドリーから彼の友人の血をホースで洗い流し終
わったところだった。彼らは2台のブラッドリーにうんと詰め
込まれてラマディのダウンタウンに向かって進んだ。

マルケスは先頭を行くブラッドリーの暗くて窮屈な後部に乗っ
ていた。ピカッとひらめき、一撃が床を引き裂いた。エンジン
が破裂した。ディーゼル燃料がいたるところで火柱を噴出した。
運転手が絶叫してはいまわり、彼の衣類から炎が立ち上がるの
を見たと、マルケスは言った。

マルケスと他の兵士らは暗い通りにやっとはい下りて、ライフ
ルの構えの姿勢をとった。もう一発の爆弾が彼らを地面に叩き
つけた。

そのとき、地面のあちこちにパラパラ降る弾丸の疾風が来た。
マルケスは脚を4回撃たれた。

大腿動脈から血がほとばしったとき、応戦するため彼の擲弾筒
を高く掲げると、ちょうど角のあたりにやって来たもう一台の
ブラッドリーの重機関銃から弾丸の嵐がやってきたのを了解し
たとマルケスは言った。

「彼らは炎上したオレたちのブラッドリーを見て、攻撃と判断
してオレたち全員死んだと思ったに違いない」と今年の春、彼
は言って頭を振った、「それからまさしく射撃が始まった」と。

陸軍によると2人の兵士が死んだ。他に3人が負傷したとマル
ケスは言った。大部隊の司令官らは、誰もそのできごとに直ち
に応じられる状態にしなかった。

マルケスはワシントンDCの陸軍メディカルセンターに空輸さ
れた。

ブッシュがパープルハーツ名誉負傷章を彼に授与することにな
ったと教えられた7月4日独立記念日の週末、彼はまだモルヒ
ネでもうろうとしていた。

見舞いに来ていたマルケスの姉は戦争と弟の負傷にそれは腹を
立てていたので大統領に会いたがらなかったが、マルケスは慎
んで受けた。

「オレは傷を負ったが、それは仕事の一部。オレは誰にも腹を
立てていなかった」とマルケスは言った。

彼は3カ月間病院にいて脚を維持するのに17回手術した。
マルケスは陸軍から医療除隊させられていて、病院にいること
ができたのだが、残り何ヶ月かをちょうどイラクから帰還して
いた戦友らと過ごすため、2005年9月13日、フォートカ
ーソンに移った。

彼はついに杖なしに歩くことを学んだが、他の傷はもっと癒し
にくいことが判明した。彼は戦争の悪夢を見始めた。役に立た
なくてびっこ、意気消沈と怒りを彼は感じた。カリフォルニア
の実家を訪ねた際に、彼はハイスクールのスポーツトロフィー
を全部ママに捨てさせた。

気分がよくなったのは唯一、医師らが処方した痛み止めのクス
リだけだった、それも過剰に服用した場合のみ。

“Kumbaya 期間”

PTSD外傷後ストレス症候群は道端の爆弾のようなもの。

症状は何ヶ月も隠れたままでいられて、爆発する。それはある
兵士はかたわにして、他の兵士は無傷のままにしておくことが
できる。そしてまさに道端の爆弾のように道路のゴミかネズミ
として隠蔽されるPTSDはまるで別のなにかのように見える。

多くの場合、質が悪い兵士のように思える。フラッシュバック
や悪夢に加えて、症状には深酒、薬物使用、家庭内暴力、仕事
をやめかける、命令に背くなどが含まれ得ると陸軍の研究は述
べる。

捜すべきものがわかるなら、それが現れるのを常に見ることが
できると、最新のフォートカーソンの司令官は言った。

兵士らは通常、帰還して数カ月間は歓喜に酔っているハイ状態
を経験するとグラハムは言った。この時期を彼は「Kumbaya
期間」と呼ぶ。

「兵士たちは自分の国に尽くしてきている、うまく戻って彼ら
は国にいる。すばらしいかぎり。問題が表面化するのはもっと
後」だとグラハムは言った。

通常、3カ月から6カ月間、問題は現れないと彼は言った。

大部隊がコロラドスプリングスに降りたとき、ほとんどの兵士
がイラクで一年と韓国で一年過ごしていた。ほとんどが数千ド
ル貯えていた。多くがはじめてアメリカで合法的に酒が飲める
年齢になった。彼らは最悪のイラクを生き延びた、そして鬱憤
を晴らしたくてたまらなかった。

彼ら全員がしなければならなかったのは、フォートカーソンが
いまだに使用する任務完了後に質問して情報を求めることを経
験することだった。

兵士たちは、軍隊は故郷について非現実的に楽観的な概念をよ
く抱くと警告する、授業の終わりまでじっとしている。配偶者
や家族と意思疎通するよう言われる。飲んで運転することに慎
重であるよう警告される、そしてどこでも銃を携帯する兵役期
間はイラクで終わったと警告される。

兵舎でなく、クルマでなく、ベルトに押し込むのでなく、あら
ゆる個人の銃が持ち場の兵器庫に保管される必要がある。

と同時にフォートカーソンはすべての兵士にPTSDと他の戦闘
関連の問題の検査をする。

赤旗がなければ兵士は休暇に行ける。赤旗があればさらなる診
断にまわされるとフォートカーソンのエヴァンズ陸軍コミュニ
ティ病院の職員らは言った。

検査は兵士らに戦闘配備に関する長い質問のリストを尋ねる。
睡眠障害はあるか?憂鬱になるか?家や隠れがをきれいに清掃
するか?撃たれたのは?捕虜に対して野蛮行為を目撃したか?
殺された友だちはいるか?など。

「人を狙撃したか?一般市民が死ぬのを見たか?アメリカ人が
死ぬのを見たか?赤ん坊が死ぬのを見たか?ノー。ノー。ノー。
ノー。」とイーストリッジが言って、質問事項にどう答えたかま
ねた。

「ああいう実態すべてを見てきたし、やってきたが、面倒なこ
とを片づけるにはウソを言うことだ。」

さらなる検査の厄介なことを望まなかったので彼らはウソを言
ったと、幾人かの兵士が同じことを言った。

若い歩兵がコロラドスプリングスで放免されたとき、多くがテ
ジョン通りのバーに群がった。バーが閉まると通りでよくけん
かを仕掛けたと兵士らは言った。

2006年に関して言えば、バーのけんか騒ぎを終わらせるた
め、ほぼ毎晩警察が呼ばれていた。割増の警官がそのエリアに
割りあてられた。

コロラドスプリングス警察は個々の部隊の犯罪統計を追跡しな
いが、エルパソ郡保安官事務所によると、大部隊が戻った後の
12カ月に全体として軍人の刑務所登録が66%増加した。

「Kumbaya期間」が約6カ月続いたと兵士らは言った。

大部分はバーの飲み代にほぼ2万7000ドル出て行ったとイ
ーストリッジは言ったが、彼が最初にしたのはピストル、散弾
銃、イラクで携帯したのと同様の突撃銃など、銃の購入だった。

「イラクに行ってからは、誰もが敵のように感じる」と彼は言
った。「やつらがあんたを殺すことにならないには、銃が必要み
たいに感じる。」

彼の友だちは皆同じように感じた。

ナッシュは枕の下に装填した銃を置いて眠った。

バトラーは彼の新生児の赤ちゃんをあやすときにも、常にグロ
ックの40口径を持ち続ける。

マルケスはピストル三挺と暴動風ショットガンとイラクで携帯
したような突撃銃を買った。教会に行ったときにも、絶えずピ
ストルを持ち歩いたと彼は言った。

彼の友だちのフリーマンは、「でかくておっそろしい」獅子鼻の
357口径リボルバーを自分用に買ったと言った。

「それなしではどこにも行けなかった」と彼は言った。「ショッ
ピングモールにそれを持っていった。銀行に持っていった。シ
ャワーを浴びたときもすぐ横にそれを置いた。パワフルでうろ
たえるほどでないと感じさせる。毎日毎秒、一緒でなければな
らない。」

特に彼らのふるまいに気づく家族がいる帰還兵はカウンセリン
グに参加した者がいた。

フォートカーソンの200人以上の兵士が、コロラドスプリン
グスの民間のカウンセリングサービス、ファーストチョイス・
カウンセリングセンターに問い合わせてきている。管理者のダ
ヴィダ・ホフマンは、カウンセラーは彼らが聞くことに用意が
できていなかったと言った。

「私たちは落ち込んで自分自身を傷つけたがる人々を見ること
に慣れています。私たちはそれに対処するため訓練されます」
と彼女は言った。「でもこの兵士たちは落ち込んで“この怒りに
ぞくぞくさせられている、誰かを傷つけたい”と言います。私た
ちはそういうのに慣れていませんでした。」

イラクで最もタフな戦闘に遭遇してきている部隊では4人にひ
とりの兵士がPTSDの実在を人目から覆い隠せると、ウォルタ
ーリードの精神医学の管理者、チャールズ・ホッジ博士がEメ
ール・インタヴューで言った。

「重大な症状があるにもかかわらず、多くの兵士が非常にうま
く彼らの本分を尽くせる状態が続きます」とホッジは書いた。
だが他は「重大な損傷」と彼が呼んだ症状を示す、そして戦闘
がますます悪ければ悪いほど、長ければ長いほど、悪い結果に
さらされる。

苦悩は戦争そのものと同じく古い。

戦争の心因性の犠牲を専門とするコネチカットの作家、エリッ
ク・ディーンが、1997年の著書「Shook Over Hell」のた
め、南北戦争からの記録を調査してフォートカーソンが遭遇し
てきている犯罪と自殺の同じ高まりを見つけた。

「彼らはいずれもみな戦争で傷を負っている」と彼は言った。
「彼らは決して順応しなかった。結局ひとりで生きることにな
り飲み過ぎることになった。」

彼らは第一次世界大戦の「ロストジェネレーション」だった。
彼らは今日、不釣り合いにホームレスの避難所や刑務所で暮ら
すヴェトナムの退役軍人である。

心因性の犠牲者はイラクでは特にひどいかもしれないと彼は言
った。

「南北戦争で現実に精神的外傷となる戦いを経験しても、生き
残らなかったのがチャンスです」と彼は言った。「今日、何度も
多様にダメにされてはすぐに戦いに戻されることがある。」

ヴェトナムでは徴兵された者の大部分が一年の遠征だった。
イラク戦争開始以来、ある兵士などは各12カ月から15カ月
の遠征を3回配備されてきている。

兵士が絶えず続く攻撃の脅威に直面するとき、闘争・逃走反応
で身体が自然に作り出すアドレナリン、ドーパミン、他のパフ
ォーマンスを高める化学物質が脳に殺到すると研究は説明する。
時間をかけすぎるとジャンキーの解決策(治療)のように脳が
これらの刺激物を渇望しかねない。

戦闘という刺激物が取り去られるとき、兵士はよく睡眠障害に
なると、ほぼ40年間、交戦地帯の人々のカウンセリングをし
てきているソーシャルワーカー、シスター・カテリ・コヴァー
マンは言った。彼らは、怒りっぽい(短気)、無感覚(鈍い)、
パラノイドに感じることがあると彼女は言った。彼らは鬱病に
陥ることがある。

そして戦争の最初の快感を戻すために彼らは別の物質を求める
ことになる。

「一触即発になるまで彼らは症状を隠すためよく酒か麻薬を使
おうとします」と、波のように押し寄せるPTSDを助けるため
今年オハイオの修道院からコロラドスプリングスに移ったコヴ
ァーマンは言った。「社会の大きな不幸、災難がここにあります。
そしてどうやってそれに対処するか、実はだれにもわかってい
ません。」

部隊の男たちのほとんどは独力でそれに対処した。

ミフリンは神経を緩和するためマリワナを吸うことに深く没頭
した。

ナッシュはクスリと酒を混ぜていた。

イーストリッジはともかく、へべれけに酔った。

彼と多くの連中がエクスタシーとコカインをやり始めたとバト
ラーは言った。

マルケスは彼を助けることになっていたクスリで自分の身を滅
ぼしはじめた。

彼の傷害のせいで、エヴァンズの医者たちがモルフィネの錠剤
90錠、パーコセッツ90錠、フェンタニールのパッチ5枚を
3週間ごとに処方したと彼は言った。

「それらは痛み止めだ」と彼は言った。「それでもまだ痛みがあ
った。でも、たいていオレはハイになるためそれらを使用して
いた。」

彼は頭からイラクをどかすことができなかった。医師らは抗う
つ剤と睡眠薬を処方したが、助けにならなかったと彼は言った。
彼はパーコセットを取っておいて、空きっ腹にひとつかみを飲
み込んでいた。

彼は自分のモルフィネを他の兵士のQuetiapineという抗精神
病薬とclonazepamという抗不安薬と交換し出した。どちらに
しろ誤った使用は精神病の反応、不安、突発性の攻撃、好戦性、
自殺行為を引き起こしかねない、だが、負傷兵らはデザートを
交換するランチルームの子どものようにそれらを交換したとマ
ルケスは言った。

「怪我した連中のあいだではほんと当たり前だった」とマルケ
スは言った。

ある時点で彼は3週間分の内服薬を1.5週間で取ってしまっ
た、そうしてエヴァンズに戻ってクスリをなくしたと主張した
とマルケスは言った。

もっと麻薬を与えるのを保安措置が妨げたと医師が彼に言った
とマルケスは言うが、医者はそれに従ってコロラドスプリング
スで処方薬を出せる処方箋を兵士に書くことができた。

マルケスは同意した。

プライバシー保護法が治療についてコメントするのを禁じると
フォートカーソンは言った。

マルケスの母親はサザンカリフォルニアの警官だ。撃たれて6
カ月後、2005年のクリスマスに息子が家に訪ねてきたとき、
何かがひどく狂っているのに気づいたと彼女は言った。一日中
ぼーっとして部屋にいて薬棚の古い痛み止めを飲もうとした。
あまりにも狂暴な夢を見るので彼女はこわくて彼を起こせなか
った。

2006年2月、彼女は彼の軍曹に電話して、彼が彼自身と他
人に危険で助けを必要としていると伝えたと、彼女は言った。

息子は独力で治療を求めなければならないと軍曹が伝えたと彼
女は言った。

そのような要求をどう扱うかについて陸軍の方針はないと陸軍
スポークスマンは言った。それは個々の司令官次第なのだ。

返事は意味をなさなかったと彼女は言った。法執行官(警官)
としてもし彼女が誰かを撃ったならカウンセリングを受けるよ
う義務づけられたと彼女は言った。息子は長くてぞっとする遠
征を切り抜けてきていた、それでもそのような資格はなかった。

カウンセリングが必要みたいに感じる若い歩兵はまずいなかっ
た。

「オレたちはまさにパーティーをやっていた」とバトラーが言
った。「ある連中がPTSDに賛成していたが、オレたちは単に
陸軍から逃れるためのはったりじゃないかと思った。」

治療を求めた兵士たちは障害に直面した。

ラマディから戻って6カ月、道端の爆弾で負傷していたマルケ
スの友だち、フリーマンは、「過度のストレスによって頭が混乱」
したと感じて落ち込み、エヴァンズのところに行くことにした
と言った。

「自分の部隊に知られたくなかったから、落ち込んでどん底だ
った」と彼は言った。

精神科病棟は兵士で圧倒されていたと彼は言った。病院による
と、フォートカーソンのPTSDの症例は2002年26人から
2006年の600人以上まで上昇していた。アポを取るのに
何週間もかかることがあったと兵士らは言った。ほとんどの場
合、病棟でのカウンセリングはグループ設定のみだった。

病院のスタッフが彼に抗うつ剤を処方して、混んでるので一カ
月間カウンセリングを受けられないと彼に伝えたとフリーマン
は言った。

それから数週間後の2006年2月、フリーマンはBストリー
トのレストラン、チャイナエックスプレスで会ったこともない
男、ケニス・テイタムと喧嘩になった。フリーマンは彼の35
7口径を引き抜いた、それと気づく前にテイタムが地面で血を
流していたと彼は言った。彼は太ももをぶち抜いていた。

フリーマンは殺人未遂で逮捕されて脅威を与える重罪で有罪を
認めた。彼は2年間刑に服して1月出所した。彼は失業中でア
ラバマの母親の家で暮らす。いまも頭痛と記憶障害があり、近
くの退役軍人業務病院でPTSDのセラピーを受けていると彼は
言った。

犯罪の故に、彼はほとんどの陸軍の手当ての有資格者ではない。

マルケスやフリーマンのような兵士を助けるため陸軍は数百万
ドル費やす。陸軍には精神的に兵士を配備に備えさえ、彼らを
海外で処置して帰還したとき彼らを社会復帰できるようにする
プログラムがある。陸軍で最高位の将校に含まれる高級将校、
ジョージ・ケーシー将軍は、帰還兵士のメンタルヘルスの面倒
を見るのが最優先事項だと言っている。

だが、トップの意見とプログラムは時々塹壕陣地(最前線)に
は届かないと兵士と専門家は言った。

死の戦士のような歩兵部隊では、タフで勇敢なのが他のなによ
り重んじられると兵士らは言った。誰であれPTSDだと言うの
は、ただちに制服を着るのにふさわしくないと思われたと兵士
らは言った。陸軍のスラングで、彼は「シットバッグ(クソ袋)」
だと思われると彼らは言った。

大部隊がスンニ派三角地帯から帰還したとき、軍曹らは兵士に
PTSDで助けを求めさせなかった、そして彼らを弱いからだと
かインチキとあざけったとアンドリュー・ポガニは言った。彼
はフォートカーソン特殊部隊の元軍曹で今は権利擁護団体アメ
リカ退役軍人の苦情を調査する。

「彼らはまったく対処したがらない」とポガニは言った。

ある司令官などはPTSDの症状を見せたからと兵士たちを罰し
たと兵士たちは言った。

いま失業中でフロリダの母親の家にいるミフリンは、コロラド
スプリングスの一般市民を時々殺したかったと彼が言ったため、
カウンセリングを受けにフォートカーソンの精神科医のところ
に行った。精神科医は彼をコロラドスプリングスにある入院患
者の精神病院シダースプリングスに預けた。彼は約一週間入院
したと言った。

「出るとすぐに予定された軍曹との最高のセッションがあって、
彼はオレがなんてウソつきかでオレを怒鳴りつけることができ
た」と彼は言った。「男がPTSDと値踏みされるようになった
とわかった後、彼らは彼を追い出すためどんなつまらんことで
も見つけようとした。」

PTSD陽性と審査された多数の兵士が、任務をすっぽかしたり
薬物使用といった違反のせいで追い出されるのと同等の、「名誉
除隊以外」の陸軍からの除隊をこうむったとポガニは言った。
兵士らは追い出されると多くの場合、PTSDで医学的に勤務か
ら解放された兵士が受け取る無料のヘルスケアやカウンセリン
グ、他の手当ての有資格者ではない。多くの場合というのは、
助けを必要とする退役軍人のほとんどがそれを得ないという意
味だとポガニは言った。

コロラドスプリングスに戻るある兵士らは申し分なく思えた。
後に2人の兵士を殺したブレスラーは相変わらず人を惹きつけ
るナイス&メローに思えたと兵士たちは言った。彼は結婚し、
いつもトレーニングに顔を見せて、うまくやってるように思え
た。

他の連中はばらばらになった。

功績と善行でメダルを授与されてきたイーストリッジは悪夢を
見だして彼の司令官らに大口を叩きだした。2006年3月、
酔っぱらってガールフレンドと喧嘩し、彼女の顔に銃を押しつ
けて逮捕された。その後、仕事に顔を見せるのを止めたと彼は
言った。6カ月間断続的に無許可外出だったと彼は言った。

「妻を平手で打ちまくることも始めた」とバトラーは言った。
「彼女はまったく一度も警察に電話しなかった。」

何日も無感覚で他人を激昂する姿勢を取ったとバトラーは言っ
た。なぜこれほど腹を立てるのか理解できなかったが、彼はま
だPTSDがまったくのヘタな言い訳だと思っていた。

ある夜、彼はイーストリッジに電話して家に来るよう伝えた。
彼はイラクに戻らなくていいように仲間に脚を撃ってもらいた
かった。

「彼を撃たなければならなくなってオレたち全員が興奮した」
とイーストリッジは言った。

彼がアパートに着いたとき、ハムヴィーの爆発でイラクで焼か
れた小隊最年少のバルコがいた。

彼らは暗い駐車場を見つけたとイーストリッジは言った、そし
てバルコがバトラーのふくらはぎを32口径で撃った。バトラ
ーは悲鳴を上げた。いたるところ血だらけだった。

「おもしろかった」と、その後すぐに彼と会ったミフリンは言
った。「結局彼は数日任務から解放されただけだった、でもそれ
はこれをやった理由の一部に過ぎない。病院で彼らが処方した
パーコセッツも彼は欲しかった。」

第4旅団の兵士の多くがDUI(飲酒および麻薬の影響下の運
転)と薬物で問題を起こした後、大部隊は兵士らが受けねばな
らない任意の薬物検査の数を増やしたと軍隊は言った。軍の部
署によると、フォートカーソンの兵士の2006年の検査で陽
性と判断される率は2004年の16倍だった。その20%が
薬物濫用プログラムに記録として登録された。大部分がまさし
く解雇されたと兵士らは言った。2006年夏、コカインを鼻
から吸い込んだせいでナッシュとバトラーは陸軍から追い出さ
れた。

イーストリッジもまた追い出されることになっていると兵士ら
は言ったが、彼は解雇されずにやってきた。

フォートカーソンによると、戦争開始以来、違法行為で400
人以上の兵士が旅団から追い出されてきている。わずか57人
がメンタルヘルスを理由に解雇された。

バトラーは妊娠中だった妻をなぐって刑務所に入った。彼らの
子どもは重症の先天性欠損症を持って生まれて死んだと彼は言
った。2人の喧嘩のせいだと、彼は幾分かそれを責める。

いま溶接工のナッシュは、「こうなるように訓練した陸軍が兵士
の面倒を見ることでその責任を怠った」と言った。「この連中の
大部分は実にひでえ状況に置かれた普通の人たちだった、その
副作用があんたら善人を飢えた野獣に変えたのさ。」

2006年、非常に多くの兵士がイーストリッジの歩兵中隊か
ら離れるか追い出されていた、彼らのために司令官どもが新た
な小隊を作ったのだとイーストリッジは言った。

マルケスの大隊はエコーカンパニーという同様の歩兵中隊を作
ったと兵士らが言った。兵士らはそれを「クソ袋旅団」と呼ん
だ。

陸軍スポークスマンはそれらの部隊が存在したとしても「知ら
れていない」と言った。

彼の違反が残りの部隊と訓練するのにまったく無能だっただけ
にせよ、マルケスはクソ袋旅団に割りあてられた。道路沿いの
草を引き抜くように、他人を罰するため立案された卑しい課せ
られた仕事をしなければならなかったと彼は言った。

彼は課せられた仕事に姿を見せなくなりだした。彼はもっとク
スリを飲んだ。もっと銃を買ってクルマに備えておいたと彼と
他の兵士らが言った。

それは秘密ではなかった。マルケスがそっと隠しておいた兵器
を見せびらかしたと、あとで軍曹どもが警察に告げた。彼らは
何もしなかったと彼の母は言った。

軍曹はまた、彼がクスリを濫用していると思ったと、保安官の
代理に伝えていた。

「恐らく、そうすることになっていたように彼らが彼を処罰し
ていたら、彼が人殺しを経験すること必至になってはいなかっ
た」と彼の母親は言った。

エルパソ郡保安官の調査官への目撃者の供述によると、200
6年10月22日、マルケスが名誉除隊する予定だった日の3
日前、片手に45口径のピストル、もう片方に50万ボルトの
スタンガンを携行して彼はワイドフィールドのヤクの売人の地
下室までびっこを引き引き下りていった。彼は売人、19歳の
スミスにスタンガンでショックを与えて、密かに確保してある
マリワナをひったくった。売人が反撃しようとしたとき、マル
ケスが彼の心臓をぶち抜き、薬莢を拾い、ハッパをひったくっ
て立ち去ったと、調査官は言う。

検察官らは彼が強盗を計画していたと言った。価格をめぐって
争いが始まったとき、彼はただハッパを買うためにそこにいた
だけで、歩兵の反射能力がまさったとマルケスは言った。

なぜ彼がスタンガンを使ったのか、そしてイラクでそれを使っ
たかどうか尋ねる手紙にマルケスは返答しなかった。

殺害から一週間、動機を追求するため保安官の代理がフォート
カーソンの彼の司令官に質問した。

兵士の歩兵中隊司令官、デイヴィッド・ラリマー大尉は、マル
ケスはPTSDと診断されていたが、ラリマーはそれを信じなか
ったと刑事らに言った。刑事の記録されたサマリー(概要)に
よると、ラリマーはマルケスがまったくの「泣き言を言うホモ
野郎」だと思ったと言った。

“ハートオブダークネス(闇の奥)”

マルケスが逮捕された日、彼の旅団はイラクへ戻る途中だった。

「バグダッドでは特に、すさまじさはたぶん私が見ているのと
同じくらい邪悪だろう」と兵士らが到着する何週間か前に中東
の米軍司令官ジョン・アビザイドが言った。「もし止められない
なら、イラクが内戦に近づくというのもあり得る」と。

街の通りのごみごみした地域ではテロリストの爆弾が多数の一
般市民を殺した。スンニ派とシーア派の人殺し分隊が互いに数
千人づつ皆殺しにした。3000人のイラク人がひと月に殺害
されていたと国連は推定した。

弾丸で穴だらけにされた近所の人々がアルドウラと呼ぶ、最も
致命的な街のコーナーのひとつに死の戦士は配置された。戦士
の大隊司令官スティーヴン・マイケル中佐は、そこを「ハート
オブダークネス(闇の奥)」と呼んだ。

旅団が国を出る前、イーストリッジは課せられた仕事に手短に
姿を現した。彼はそこにいて幸せだった。彼は交戦地帯にいた
とき以上に生きてると感じたことがなかった。

「戦場を見るのはほとんど宗教的体験のようなもの」と彼は言
った。「爆発を聞くこと、人が血を流して死ぬのを見ること、す
べてが燃えるのを見ていぶし火と肉が燃えるのを嗅ぐ。生きて
いるということを心から実感させる。戦闘は体験できる最高の
ラッシュ(高揚感)」だと。

最初の戦闘配備の始まりから、彼は刺青でいっぱいにした。

腕にはクルマ爆弾で殺された彼の軍曹を記念する刺青があった。
手首には、必要なら切断できるところをマークする赤い点線「キ
ル・ライン」があった。腕にはナチのSS双子の稲妻があった。
襟のように首を巻くのは「BORN TO KILL, READY TO DIE.」
の言葉だった。

陸軍が軍の規則に従っていたなら、彼は次の遠征でイラクに戻
ることはなかっただろう。

軍規は係争中の重罪を有する者はだれであれ戦闘配備から締め
出す。

イーストリッジはガールフレンドの頭に銃を押しつけたために
裁判を待っていた。彼の指揮官はそれを承知していたと彼は言
った。

だが、若い兵士が現れて軍曹にどうかイラクに戻してくれと懇
願したとき、彼らはそうした。なぜ司令官らが承知の上でイー
ストリッジを配備したかについて、陸軍ははぐらかそうとした。

部隊が彼を戻したかった理由があったとイーストリッジは言っ
た。彼は大隊で最も腕のいい砲手のひとりだった。

彼はマシンガンを持った「外科医のよう」で、全く何も恐れな
かったと兵士たちは言った。

彼はまさに、闇の奥を経験するタイプの兵士だった。

最後の遠征でのイーストリッジの仲間数人がここでも彼と一緒
だった。クールで冷静な砲手、ルイス・ブレスラーがいた。ホ
セ・バルコもいた。彼は、先の遠征での爆発からやけどを負っ
て発汗障害があったにもかかわらず、イラクに戻させてくれと
司令官らを説得していたと兵士たちは言った。

部隊の他の兵士の多くが薬物かPTSDで任を解かれるか、他の
制約のため去っていたと兵士たちは言った。陸軍はその数を提
供しなかった。だが、いなくなった兵士ことごとくの代わりに
新入りがいた。

母親がバグダッドに配置された看護婦だったのでオマール・フ
ァル・ヴァイヴズは兵役の申告登録をしていた。そして彼抜き
で母をひとり行かせるつもりはなかった。

反乱行為が猛威をふるったまま、祖国がまるで彼を必要とした
かに見えたので兵役の申告登録をしたジョン・ニーダムは、カ
リフォルニア出身のサーファーのチャンピオンだった。

イーストリッジの小隊の新しい衛生兵として割りあてられたブ
ルース・バスティンは、やせて紅い頬をしたコネティカット出
身の男。

古参兵でも、バグダッドがいかに最悪かを覚悟していなかった
とイーストリッジは言った。

ある時点で部隊は、1日ひとりの兵士を病院行きか死体保管所
行きで失っていた。

最初、その強烈さを愉しんだとイーストリッジは言った。誰が
バッドガイをより多く殺せるか知るため、彼はブレスラーと競
争することにした。彼の最終総数は約80人だったと彼は言い、
彼の軍曹が確認した。

だが、数カ月後、急襲、流血の争いと道端爆弾の絶えず続く脅
威が彼を苦しめだした。彼は眠れなかった。彼は常にピリピリ
して切れそうだった。基地の医師らは彼をPTSD、鬱病、不安、
睡眠障害と診断した。彼らは抗うつ剤と睡眠薬を彼に与えて彼
を任務に戻した。

数週間後、クスリは効かなかったと言って彼が医師らのところ
に戻ったとき、医師らが二倍の量に増やしたのを彼のカルテは
示す。

2007年春、バグダッドを取り戻す増派の一部として500
人の死の戦士が彼らの本部基地から、近所の人々のなかにばら
まかれたCOPとして知られる兵士100人の戦闘前哨地点へ
移動させられた。

「COPに到着したとたん、事態は悪化した」とイーストリッジ
は言った。「死闘、ロケット弾攻撃、走行中のクルマからの射撃
を毎日経験することになった。」

増える負傷者リストで、連中がやられたとき戦闘陣地を満たす
ため非戦闘用兵士が引っ張り入れられたと兵士たちは言った。
それでも穴は埋められなかった。2007年夏までに歩兵中隊
は非常に激減されたので5人の兵士を乗り込ませるように計画
されたハムヴィーは3人でパトロールを続けていたとイースト
リッジと彼の軍曹は言った。

COPにメンタルヘルスケアの時間はなかったとイーストリッ
ジは言った。時々、彼らは何日も眠らなかったと彼は言った。

イーストリッジのイラク人通訳はリラックスする方法として彼
にバリウムを手ほどきした。初めは、任務の2、3日前に飲む
だけにした。それから、彼は常に2、3錠飲んでいた。そうし
てもっと多くを飲んでいた。

勝利して自制をなくす

増派が功を奏した。

死の戦士の司令官たちは徹底的な足を使ったパトロールと強い
コミュニティとの結びつきをベースにした勝利戦略を計画し、
そこで兵士たちは小さな近隣をパトロールするため割りあてら
れて隣人をすべて知るようになれと命じられた。もしかすると
地元民が陸軍の目や耳になる、バグダッド版のNeighborhood
Watch(防犯のための近隣住民による警戒)を築き上げた。も
し撃たれても妻にさよならを言えるように遠征に携帯電話を持
ち歩きだしたカルデナスは、バッドガイをどこで見つけるかに
関するホットラインとして地元民に彼の携帯番号を手渡しだし
た。

ARMY誌の「死の戦士」の大尉による記事によると、15カ月
の戦闘配備の最初の6カ月のあいだ、兵士らは毎日複数回攻撃
された。

終いには、彼らはまったく攻撃されなくなっていたと彼は書い
た。

最初の6カ月兵士たちは、毎朝殺人分隊によって残されるばら
ばらになったイラク人の死体を集めなければならなかった。

終いには回収する死体はなかった。

爆弾攻撃はゼロ近くに減少した。

だが、勝利にはかなりの犠牲を払った。

毎日の暴力の負担の下、イーストリッジ、バスティン、ブレス
ラーは自制をなくしだした。

ニーダムもまたそうだった。バグダッドに到着して数週間後、
スナイパーの弾丸が友だちの頭を砕いたとき、彼は徒歩パトロ
ールの最中だった、そしてニーダムに脳が飛び散った。続く数
カ月、彼はIED(improvised explosive device :ありあわせ
の火薬と携帯電話などの起爆装置を組み合わせた手製の簡易爆
発物。イラクでは、道路わきやクルマなどに仕掛けられた)に
6回やられたとニーダムは父親への手紙に書いた。ある爆破は
背骨を骨折するほど彼を激しくトラックの天上にぶつけさせた。

どんな折にも、彼の軍曹の返答は「びしっとする(苦難を乗り
越える)」ことだったと彼の父親マイケル・ニーダムは言った。

大体は、ニーダムはびしっとした。ロケット推進型手榴弾が仲
間の兵士トーマス・ウーリーを吹き飛ばしたとき、ニーダムは
彼らの護送船団のハムヴィーの旋回砲塔から大砲の後ろにジャ
ンプして発射を開始したとニーダムの父は言った。

そうして何かが彼を悩まし始めたと彼の父は言った。

勝ちを求めて、彼の小隊で何かがきたなくなったとジョン・ニ
ーダムは言った。

より致命的にさせる、インパクトを拡大するためデザインされ
たホローポイント弾をライフルに装填した兵士がいたと彼らは
言った。それらの弾丸は国際協定によって禁じられている。

それも、ひとつの小隊だけではなかった。彼自身を含め、彼の
小隊の兵士もまたホローポイント弾を使ったとイーストリッジ
は言った。本国から送ってもらうのは簡単だったとイーストリ
ッジは言った。最初の配備で彼らの部隊のある連中は違法なス
タンガンを携行したと両方の兵士らが言った。

ニーダムの主張を調査して証拠は見つからなかったと陸軍は言
った。

だが、もっと多数の小隊の戦術があった。

2007年12月の陸軍内の犯罪を調査するフォートカーソン
の監察官の部署への手紙で、ニーダムは彼が見た残虐行為につ
いて語った。彼の父親がコピーをガゼット紙に提供した。

ひとりの軍曹が通りを下りてくる自転車に乗った少年を理由な
く撃ったとジョン・ニーダムは言った。応急手当をするためニ
ーダムともうひとり兵士が急行したとき、軍曹は「いらん、出
血させておけ。」と言った。

別の軍曹は尋問をしていた間にわけもなく男の頭を撃った、そ
うして死体を切断し、それを彼のハムヴィーのボンネットに縛
り付けてアラビア語で「次はやつらだ。」と反政府の暴徒に警鐘
を鳴らすため近隣地域を走り回ったとニーダムは言った。

他のイラク人は、ねつ造された理由で撃たれた後に切断された
とニーダムは言った。

軍曹らは特に犠牲者の脳を取り除くことが好きだったとニーダ
ムは言った。

兵士がハムヴィーのボンネットの上のイラク人から脳を取り除
く写真と他の写真をニーダムは証拠として提供した。彼の父親
がガゼット紙にコピーを供給した。

陸軍の犯罪調査部門が部隊の兵士数人と面接して「彼の申し立
てのいずれも実証不可能」だったと言った。

「あいつらはマジに狂っていた」とニーダムの父は言った。
「そしてそれが彼の神経にさわりだした。」

2007年12月、ニーダムは大隊の医者のところに行った、
そして彼が書いた軍務のサマリーによると、彼は「自制がきれ
かかって」いて休みが必要だと言う。彼は抗うつ剤ゾロフトを
処方されて持ち場に戻される。5月、再び医者のところに行き、
また持ち場に戻されたとニーダムは言った。カルテによると、
6月に彼はまた医者のところに行った。そして9月。司令官ら
は常に彼をパトロールに送り返したと彼は言った。

その頃の時機、彼は自分のMySpaceのページにこう投稿した。
「オレはがたがたになっている、ここでの毎日は互いに搾り取
ってるようだ、オレは生きる目的を見つけなくてはならない、
兄弟が恋しい。この壁はそのクモの巣でオレを包むオレの絶望
に陥没する、オレは沈んでいると感じる、人命救助員にオレを
送ってくれ、生きる価値のある人生にオレを送ってくれ。オレ
は死の一部、オレは死んだも同然状態、これはなかなか認めが
たいが、このクソ野郎どもは年を取る。」

数日後の9月18日の夜、ニーダムと仲間の兵士らは密売品の
ウィスキー缶を買い、酒を飲んで彼らの悲しみを失おうとした。
それからニーダムは銃を取り出して自分の頭に一発見舞ったと
彼の父は言った。弾は外れた。違法に銃火器を発射した罪でニ
ーダムは彼の司令官らによって拘留された。電話とEメールに
よる説得の数週間後、ニーダムの父親は息子を医者に診せるよ
う部隊を納得させた。兵士はひどいPTSDと診断されてウォル
ターリード陸軍メディカルセンターに空輸された。

「彼を自殺を図らせるほど深刻な絶望の局面に導いたのはなに
か?」と彼の父は退役した陸軍将校に尋ねた。「私は理解する。
彼は兵士として訓練された。彼は申し分のない兵士だった、そ
して彼のグループは彼が間違ってるとわかることをしていた。
そして彼ら兵士を生かしておくためにこの防護の役をするあら
ゆる状態と人命救助のテクノロジーを経験するこの長引く戦闘
状況に彼はいた、だが心の中でとことん自制心をなくす。」

極限

イーストリッジは同じ時期、ぼろぼろにくずれ始めた。

彼は最初の遠征中に勲章を授けられた兵士だった。だが、二度
目の遠征で彼の判断力はいつの間にかなくなった。

家屋を急襲する間、彼はバリウムを求めて薬品棚を物色し始め
た。

そうして彼は一般市民から現金とシーア派民兵に売るつもりだ
と言った兵器を盗み出した。

一度、家をくまなくあさりまわった後、盗みを大隊によってし
ごかれたと彼は言った、だがそれは有力な親戚に恵まれた男の
所有だったからにすぎない。たいてい彼はそれを持って逃げた。

パトロールで自制を失ったとき、彼はまたしごかれた。誰かが
近くの農家から彼の分隊を狙って撃った。イーストリッジはそ
の家に約20発の手榴弾をぶち込んだ、そうして突進していき、
裏で農夫と彼の2匹の犬を見つけ、地面のAK-47からの薬莢
を見抜いたと言った。

イーストリッジは射撃手がどこにいるか言えと迫った。

男は知らないと言った。

男の犬の一匹をイーストリッジは撃った、そうして射撃手はど
こか言えと命じた。

男は知らないと言った。

イーストリッジはもう一匹の犬を撃った。

冷静になる必要があり、トラックに座っているよう彼の中尉が
命じた。

すたれかけて、イーストリッジは男の1ダースのヤギの群れを
見逃した。彼は機関銃でそれをなぎ倒した。そのあと、彼は男
の2頭の牛を撃てと兵卒に命じた。そうして彼は男の馬を撃っ
た。

「オレはほんとうに自制を失っていた」とイーストリッジは言
って頭を振った。

陸軍は情報自由法の下に請求されるイーストリッジや他の幾人
かの兵士の懲戒記録を供給してきていないが、イーストリッジ
の始末書は彼の小隊軍曹によって確認された。

ブレスラーとバスティンもまた自制を失いだした。

2007年5月、バスティンは休暇で帰国した。警察の記録に
よると、その間、衛生兵は妻をなぐって投獄された。刑務所に
いるバスティンはこの記事のためにインタヴューされるのを断
った。逮捕後、陸軍は彼をコロラドスプリングスに引き留めた。

2007年6月、兵士らによると、ブレスラーは親友が銃撃戦
で殺されるのを見た。その後、兵士らがポーカーテーブルで見
つけることができた常に感じがよくてしっかりしたブレスラー
が現実から引きこもり始めたと兵士らは言う。

2007年7月、ブレスラーは気が狂って、彼の指揮官を殺す
と脅して攻撃したとイーストリッジは言った。

刑務所にいるブレスラーはインタヴューされるのを断った。彼
の妻によると、彼はPTSDと診断された。陸軍はイラクにいる
には彼は不安定で危険すぎると決めて、彼をコロラドスプリン
グスに送り返した。

イーストリッジはもうひとつ使命を帯びて派遣された。

彼は、毎分600発一斉射撃する親玉、ハムヴィーのM240機
関銃を受け持つ砲兵伍長だった。残りの彼の小隊が家を捜索す
る間、彼は通りの見張りを命じられたと彼は言った。

将校が離れるとすぐに人々を殺すつもりだとイーストリッジは
彼の中尉に話したと言った。そうして運転手に「殺しの音楽」
ヘビメタをかけるよう頼んだ。

彼の中尉は笑って立ち去ったとイーストリッジは言った。

家族が外でサッカーをやっていて、バーベキューをしていた。
イーストリッジはただもう射撃を開始したと言った。数人の老
人が木陰に集まっていた大きなヤシの木に彼は長い集中射撃を
浴びせた。

人々が走り出した。彼らはクルマに群がり進むと疾走した。近
隣地区には事実上運転規則はなかった、従って、彼は動くすべ
てのクルマに十字線のねらいをつけたとイーストリッジは言っ
た。

「オレに考えられるのはクルマ爆弾、クルマ爆弾、クルマ爆弾
ばかり、そしてただもう射撃し続ける」と彼は言った。

停戦命令がラジオ放送で伝わったが、彼は「いやだ!いやだ!」
と叫び続けたと言った。

1700発以上撃ったとイーストリッジは言った。何人殺した
か聞かれたとき、彼は「それほどでもない。たぶん1ダース」
と言った。

薬物所持と命令違反を含める9つの訴因で彼はほどなく軍法会
議にかけられた。一般市民殺しはそのひとつではなかった。

それについては、歩哨任務に就かされたと彼は言った。

そうして2007年8月、法廷証言によると、軍曹が洗濯場で
バリウム463錠を持った彼を見つけ、彼のベッドで裸の女性
兵士を見つけた。彼の母親リーン・イーストリッジによると、
二等軍曹が女性について彼の眼前に突き付けるとイーストリッ
ジは暴言を吐いた、そして軍曹を殺してやる、彼の血をすすっ
て彼の子どもたちに吐きかけてやると絶叫して言った。イース
トリッジは命令違反と薬物所持で軍法会議にかけられ、一カ月
のあいだクウェートの捕虜収容所に送られた。

今年の春、彼がイラクでやったことを斟酌すると、彼を軍法会
議にかけさせたのがセックスとドラッグだったのは滑稽だと、
イーストリッジは言った、「成り行きは決して語られるはずはな
いが、それについて誰でも知っていて是認を表明する、要する
に戦争犯罪だと。」

軍法会議の一部として彼は健康審査を受けた。医師たちは彼を
慢性のPTSD、非社会性人格障害、鬱病、不安、そして難聴と
診断した。2007年9月遅くに彼の司令官らは彼があまりに
不安定でイラクにとどまるには危険だと決めた、従って陸軍は
彼をコロラドスプリングスに送還した。

以下にあるのは、暴力犯罪に関与したフォートカーソンの兵士
らのニュース報道のいくつか

・ 2005年8月3日、スティーヴン・シャーウッド上等兵
が妻を撃ってから自分自身を撃ち殺す
・ 2006年10月22日、アンソニー・マルケスがぶざま
なヤクの取引中に男を殺害
・ 2007年8月、ブルース・バスティン、ルイス・ブレス
ラーがロバート・ジェームズを襲って強奪し、殺す
・ 2007年10月、バスティン・ブレスラーとイーストリ
ッジがエリカ・ハムを襲って強奪し、刺し殺す
・ 2007年11月、バスティン・ブレスラーとイースト
リッジがケヴィン・シールズを殺す
・ 2008年5月26日、Jomar Dionisio Falu-Vives上等
兵とロドルフォ・トレス・ガンダリラが走行中のクルマか
らZachary Zsody大尉を狙撃
・ 2008年6月6日、Jomar Dionisio Falu-Vivesとロド
ルフォ・トレス・ガンダリラがガレージセールの看板を掲
示する間に通りの2人を撃ち殺す
・ 2008年8月13日、ロベルト・バルコがジュディリ
アナ・ローレンスのノドを裂く


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