■占有地からの撤退でイスラエルが法案を可決■
BBC 22 November 2010

東エルサレムのユダヤ人入植問題をめぐってパレスチナ人との会談
は決裂してきている

ゴラン高原からも東エルサレムからも、どんな撤退より先に、イス
ラエル議会は厳格な新たな制約を設ける法案を可決してきている。

なんらかの撤退が承認されるとして、法案はそれより前にイスラエ
ル議会で三分の二の賛成多数を必要とする。

それができないと、提案は国民投票にさらされることになる(過半
数の賛成を必要とする)。

どのようなイスラエル政府でも、占有地からの撤退を用意するのを
いっそう困難にさせることで、措置は和平の取り組みをこじらせる
可能性もあるとアナリスト言う。

65対33の賛成多数で可決した法案は、「無責任な協定(同意)」
を未然に防ぐだろうと言った、イスラエルのネタニヤフ首相から後
押しされた。

法案を提案した与党リクード党のレヴィンは、「国民のまとまりを
保持するため、最大限国民重視」ということだと言った。

ゴラン高原と東エルサレムはイスラエルの支配下にあるとイスラエ
ルは見なす、ところがシリアはゴラン高原を主張してパレスチナ自
治政府は東エルサレムを主張する。

"あざけり"

西岸のパレスチナ政府は措置を厳しく非難した。

「この法案の可決でイスラエル指導部は、もう一度、国際法をなぶ
りものにしている」とパレスチナの交渉者、Saeb Erekatは言った。

「わが国の占領の終焉は、いわばどのような国民投票にあっても決
められないし決められるはずもない。」

パレスチナ人は東エルサレムを今後の国家の首都として望む。

1967年戦争でゴラン高原をイスラエルに取られたシリアからさ
し当たっての論評は1つもなかった。

ダマスカスは平和の返礼に領域を返してもらいたいが、イスラエル
人はイスラエル北部を見下ろす高地を戦略上価値のあるものとして
大切にする。

1967年以来、イスラエルは東エルサレムを含めてヨルダン川西
岸地区を占領してきている、そして100以上の入植地に50万前
後のユダヤ人を住み着かせる。彼らは国際法の下に不法と見なされ
る、けれども、イスラエルはこれに抵抗する。

△原文はここに↓あります
http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-11817445

△ 改正法では、占有地からの撤退を伴う和平合意に政府が署名する
場合、事前に国会(120議席)で過半数の承認を得たうえで国民
投票にかけることを義務づけた。ただ、国会で80人以上が承認し
た場合は国民投票は実施しない。

イスラエルでは1995年10月、パレスチナの自治権を拡大する
協定を国会で賛成61、反対59の小差で承認したが、翌月、これ
に反対する極右のユダヤ人青年によってラビン首相(当時)が暗殺
された。この事件が今回の法改正に影響を与えた可能性もあるとみ
られる。

最大野党カディマのリブニ党首は、「一般大衆が判断することでは
なく、すべての問題に通じた指導者が決めるべきだ」と反発。他の
左派政党議員からも「紛争が永続的なものになる」と懸念する声が
あがっている。

(朝日新聞 2010年11月23日)

=======================================

■ エルサレムの嘆きの壁開発計画は"不当"と
パレスチナ人によって反対される■

ガーディアン紙 22 November 2010

占領下にある東エルサレムの主要な観光地ぐるり一帯を改良する約
2300万ドルの問題の多い事業計画をイスラエルが認可

パレスチナ人によって不当と厳しく非難されてきている動きの中で、
イスラエルは、ユダヤ教の最高の聖地であり、この上なく敏感なエ
ルサレムの旧市街の論争地区、嘆きの壁ぐるり一帯を開発する約
2300万ドルの5年計画を承認してきている。

第二神殿(Second Temple)の最後の跡としてユダヤ人によって崇
めたてられる西の壁、または嘆きの壁は、毎年大勢の観光客を引き
寄せる。祈るため、または歴史的な石と石の間のすき間を割って紙
の切れ端に祈りの言葉を手書きするユダヤ人礼拝者のたわごとを見
物するために。

イスラエル閣議によって承認された計画は、程近い考古学の遺跡に
加えて壁と周囲の広場へのアクセスを向上させて、右肩上がり数の
見学バスや専用車に満足を与え、ためになる施設を備えつけること
になっている。それは2004年に承認された初期の5年計画の継
続だ。

「西の壁はユダヤの民族の最重要の遺産(先祖伝来)の場所」とネ
タニヤフ首相は言った。「老いも若きも、イスラエルと世界中から
の巨万の訪問者にとって霊感の源であり続けることができるように、
私たちはそれの開発と維持をゆだねられる。」

壁のすぐ上は、ハラムシャリーフ(Haram al-Sharif)として知ら
れるイスラム教徒の居住区域だ、そこは岩のドーム(Dome of the
Rock)やイスラム教徒にあっては第3の聖地であるアルアクサ
(al-Aqsa)モスクに場所を与える。その場所はユダヤ人には神殿の
丘として知られた。

計画の発表はパレスチナ人から鋭い批判を引き出した。

「エルサレムの占領地域でのどんなイスラエルの活動たりとも違
法」であるとパレスチナ自治政府の Ghassan Khatibはハーアレツ
紙に告げた。

「和平はどうしても東エルサレムの占領の終わりを要求するものな
ので、和平プロセスが懸念されるほどにそれは有益でない」と彼は
言った。

その領域ぐるりのユダヤ人の建設工事は、従来、抗議と暴力を誘発
してきている。

エルサレムのキーとなるイスラム教徒とユダヤ人とキリスト教徒の
聖地は、グリーンライン(敵対する2つの地域の境界線)もしくは
1967年以前の境界のほんの東側、旧市街のあちこちにある。国
際社会によって承認されない行動でイスラエルは1967年の6日
戦争において東エルサレムを攻略し、後で併合した。

△原文はここに↓あります
http://www.guardian.co.uk/world/2010/nov/22/israel-western-wall-plan-jerusalem

=======================================

■深まる危機のなかで■朝日新聞GLOBE現地取材記 
2009年3月16日
 
<第2回>聖地の時限爆弾 「聖地に勝手に手を加えることは認めら
れない」

エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教の共
通の聖地である。いずれも、ユダヤ人のアブラハムが契約を結んだ
全能の神を「唯一神」として信仰する一神教である。

城壁に囲まれたエルサレム旧市街地には、「神殿の丘(アラビア語
ではハラムシャリーフ)」と呼ばれる小高い丘がある。古代ユダヤ
王国の神殿がこの丘の上に建っていたため、ここがユダヤ教徒の聖
地となっている。現在、ユダヤ教徒が礼拝する「嘆きの壁」はこの
古代神殿の西側の壁である。

キリスト教徒にとっては、神殿の丘のすぐそば、やはり旧市街の中
にキリストが十字架を背負って歩いたビア・ドロロサ(悲しみの道)
や、聖墳墓教会がある。

そしてイスラム教徒にとっては、エルサレムはメッカ、メディナに
つぐ第3の聖地とされる。イスラム教のコーランには神に導かれた
預言者ムハンマドが「はるかな地」から天に昇る「夜の旅」をした
とあり、その「はるかな地」はハラムシャリーフとされ、そこには
「アルアクサー(はるかな地)モスク」が建つ。

3つの宗教の聖地が重なり合うように存在するエルサレム旧市街は、
必然的に宗教的な緊張をはらむことになる。

とりわけ、同じひとつの丘をそれぞれの聖地と考えるユダヤ教徒と
イスラム教徒の緊張はすぐ沸点まで上昇する。2000年9月にパ
レスチナ人のインティファーダ(民衆蜂起)が始まったきっかけは、
当時のリクード党首シャロン氏による「神殿の丘」への訪問だった。
イスラム教徒はそれを宗教的な挑発と受けとめたのだ。

そしていま、聖地エルサレムでは新たな危機の火種がくすぶってい
る。「嘆きの壁」と神殿の丘のムグラビ門とをつなぐ橋の建設問題
である。特に、右派リクードのネタニヤフ党首が首相になれば入植
地拡張政策とともに聖地を巡る強硬姿勢に出て問題を悪化させるの
ではないか、という懸念が出ている。

嘆きの壁からムグラビ門には、もともと、古代ローマ時代からイス
ラム帝国時代を経て英国統治時代にいたるまで、改修が繰り返され
てきた盛り土によるスロープ(傾斜路)があった。そのスロープが
2004年に一部崩れた後、仮設の木製のスロープ状の橋がつくら
れたが、ここに常設の橋の建設を求める意見がイスラエルの右派や
宗教勢力からあがった。

2006年11月、エルサレム市が、古いスロープを撤去して新し
い橋を建設する計画を承認した。翌2007年1月にオルメルト首
相が橋の建設を承認し、坂の周辺の考古学調査を認め、翌2月にイ
スラエル考古庁が調査を始めた。これに対してパレスチナ人は「イ
スラムの歴史を破壊しようとする」と反発して、西岸やガザで調査
反対のデモが広がった。UNESCO(国連教育科学文化機関)が歴史
的なスロープを撤去することなどに懸念を表明し、現地に使節団を
出すなど介入した。オルメルト政権はパレスチナ人や国際的な反発
にもかかわらず、計画を進めることを決めたが、エルサレム市長が
計画の停止を決めた。

2007年7月オルメルト政権はいったん調査を中断したが12月
にムグラビ門の考古学調査の再開を決めた。2008年7月、エル
サレム市の計画建設委員会は橋の設計の修正案を承認した。新しい
案では歴史的なスロープは残して鉄製の橋をつくることになり、一
方で、嘆きの壁でユダヤ人が礼拝する場所は拡張されることになっ
た。

パレスチナ側で自治政府からエルサレム知事に任命されているアド
ナン・フセイニ氏(61)に話を聞いた。「エルサレム知事」という
のは「エルサレムはパレスチナの首都」と主張するパレスチナ自治
政府によって任命されたものだ。もちろん、パレスチナ人が住んで
いる東エルサレムはイスラエルの支配下にあるため、「知事」の肩
書きも形式的なものにすぎない。フセイニ氏はパレスチナの有力家
族フセイニ家の有力者で、長年、エルサレムのイスラム教財産を管
理してきたヨルダン政府の宗教寄進財産局の局長を務めた。

聖地問題に長年、関わってきたフセイニ氏は、「われわれは昔から
ある歴史的なスロープを、元どおりに修復することを求めている。
新しい橋をつくる必要などない。とても美しいスロープで、長い歴
史が積み重なったものだ。聖地に勝手に手を加えることは認められ
ない。非常に扱いに注意しなければならない場所だ」と主張する。

イスラエルが出した見直し案についても受け入れられないという。
「イスラエルはヨルダンやUNESCOと協議して、いくらか妥協して
計画を実施しようとしているが、見直し案も必要以上に大きな橋に
なっている。アルアクサ・モスクにイスラエルの治安部隊を入れる
ためとしか思えない。イスラエルの意図は、イスラム聖地に関わる
イスラムの歴史的な遺産を撤去し、同時に自分たちの礼拝所を拡張
しようとするものだ。どのような計画にしろ、聖地の現状を変える
ことになり、それをわれわれに押しつけようとするだろう。問題は
新しい橋ではない。新しい橋をつくるという口実で、イスラエルが
聖地に手を加え、さらに治安を強化しようとしている」

ネタニヤフ政権ができたとき、イスラエルはムグラビ橋を建設する
と考えるか?
フセイニ氏は答えた。「イスラエルは常に一方的な行動を取ってき
た。われわれのいうことには決して耳を貸さないだろう」

ネタニヤフ氏は、故ラビン首相が暗殺された後の総選挙で96年に
首相に就任した。その時に、聖地を巡る武装衝突があった。 同年9
月にネタニヤフ政権はエルサレム旧市街に神殿の丘の外壁にそって
掘っていた観光用トンネルを掘り進み、ビア・ドロロサで地上に出
るための出口を開通させた。パレスチナ側から「聖地への冒とく」
という非難があがった。

衝突は、パレスチナ人の若者がイスラエルの治安部隊に投石し、そ
れにイスラエル側が銃撃したことによって西岸やガザにまで広がっ
た。94年にオスロ合意が実施され、西岸とガザでパレスチナ自治
政府が生まれ、治安維持のためのパレスチナ警察が創設されて初め
て、パレスチナ警察とイスラエル軍の銃撃戦となった。争乱状態が
数日続き、70人以上が死亡した。

トンネルは長さ488メートル。石を積み上げた地下倉庫や溝、巨大
な石積みなどが続く。トンネル掘削は1967年の第三次中東戦争
でイスラエルが東エルサレムを占領した後、同国宗教省が発掘を始
めた結果だ。イスラエルにとっては、エルサレム支配の正当性を引
き出す宗教的、政治的意味もあわせもつ。しかし、キリスト教、イ
スラム教など様々な文化が関わるエルサレムの歴史を掘り返すこと
になる。また、発掘で地上の歴史的建造物や住民居住地の壁にひび
がはいるなどの例が多く報告され、パレスチナ側は「イスラムの聖
地を崩壊させる」と反発する。トンネルは2年前にほぼ完成したが、
労働党政権はパレスチナ側の反発を避け、イスラム地区に抜ける出
口工事は延期していた。

イスラエルの右派勢力は、ユダヤ強硬派の支持を得るために、入植
地問題とともに、聖地問題で強硬な姿勢をとる傾向がある。96年
にエルサレムの観光トンネルの出口を開けたネタニヤフ政権や、2
000年秋のシャロン氏の神殿の丘訪問などが前例だ。今回、ネタ
ニヤフ氏が首相に返り咲いた場合、ムグラビ門の橋建設問題が、新
たな聖地の火種となる可能性が高まることになる。

(編集委員・川上泰徳)

△元記事はここに↓あります
http://globe.asahi.com/feature/090316/side/02.html


♯お知らせ♯

きままなブログを始めました。よりのんきでよりビジュアルな内容に

なっています。こちらもごひいきに。

http://tequilamama.blogspot.com/