■「安全神話」が日本に原子力危機の機を熟させる■NY Times 
24 June 2011

日本の志賀(石川県)、日本海に面する原子力発電所にほど近い大
きなPR建物の一連の展示は、"不思議の国のアリス"から、かなりの
力添えを得て、原子力エネルギーの美徳を称揚する。

「大変、まったく大変」と最初の展示で白うさぎが言う、「アリス、
わたしたちはエネルギー資源を使い尽している」 と。

ドードーロボットのフィギュアがアリスと建物の見学者にむかって
あいさつするため旋回し、原子力というエネルギーの"エース"があ
ることを切り札として宣言する。クリーン(汚染物質の排出の少な
い)で、安全で、ウランとプルトニウムを再生するならばリニュー
アブルだとドードーは言う。

「わぁー! 資源の乏しい日本には最適と言ってもいいわね!」とア
リスが言う。

幾十年余りずっと日本国民に原子力の安全性と必要性を言い聞かす
ため、日本の原子力施設はおびただしい財源をささげてきている。
施設運用者はファンタジーでいっぱいの気前がいいPR建物を作り、
それが観光名所になった。もっぱら原子力施設の安全性を宣伝する
ため築き上げたマルチ機構を介して官僚主義者らは念入りに仕上げ
る宣伝キャンペーンを長々と引き伸ばした。原子力について親しみ
やすい考え方の付いた政府が義務づける学校教科書の採択を介して
政治家が推進した。

結果は、日本の原子力発電所は絶対に安全との、"安全神話"と呼ば
れる信奉の広範囲にわたる採用だった。西側諸国がちょうど原子力
から距離を置く時に日本は一心不乱に原子力を追い求めた。

原爆で攻撃されるただ一つの国、日本の、原子力採用が実に堅固で
あったのでスリーマイル島やチェルノブイリの事故がほとんど功を
奏さなかった理由を説明するのに、この信奉が役立つ。福島第1原
子力発電所の重大局面をもってしても、原子力に対する反響は日本
自体よりもヨーロッパやアメリカ合衆国でのほうがずっと大きい。

日本側が福島第1原発での惨事に対して解決策を捜し求め続けると
同時に、ある人々は国民全体の精神の奥深くを探り出して、この度
広く理不尽と覚しいこの信奉を抱え込む国家の偏向を吟味している。
日本の原発の絶対の安全性に対するこの普及した信奉のため、原発
運用者と原子力規定機関は、非常時ロボットや専門家のような厳密
な意味での安全措置と先進テクノロジーを取り入れ損ない、役人は
事実を白状することができなかった。

「日本にあっては、私どもには多少"安全神話"と考える何ごとかが
ある」と6月20日ウィーンでの国際原子力機関閣僚級会議の記者
会見で核産業を監督する経済産業相を担当する海江田万里は言った。
「日本の原子力発電のテクノロジーに合理的でない過信があったの
は事実です。」

その結果、安全性に関して核産業の判断は"お粗末な根拠を含んでい
る"と彼は言った。

平素は、第二次世界大戦にあっては最も著しく、そういった国家的
信奉を作り出すことで日本政府はそのプロパガンダと教育的尽力に
専心してきている。戦後の日本の経済成長と大エネルギー資源一本
立ちの夢を見すえるのに、原子力をしきりに要求することが根拠を
与えた。けれども念入りに養い育てる原子力の安全性に対する信奉
が、3月11日の惨事から3カ月後に吹き飛ばされてきている。日
本人はますます福島の責任を原発に負わせてきている。政治的に無
関心な国で、幾万もの人が何度も原子力に対して抗議を行ってきて
いる。若き日本人は、大手新聞やテレビ放送によってほとんど無視
されてきているデモを主催し、宣伝するのに、ソーシャルメディア
を利用してきている。

"ずっとウソだった"の歌が抗議行動でのアンセム(賛歌)となり、
インターネットでの日本人の怒りの伝達の手段になってきている。
制作者の斉藤和義という有名な歌手がラヴバラード"ずっと好きだ
った" の歌詞を変えることでそれを作った。"ずっと好きだった"は、
大手化粧品会社、資生堂のコマーシャルとして彼が昨年作曲した。
YouTubeや他のサイトにこそこそとアップロードされる斉藤氏の
歌のパフォーマンスはウイルスになってきている。

「ずっとウソだったんだぜ、この国を歩けば原発が54基、教科書
やCMも言っていたよ、安全だって」と歌う。

「ずっとウソだったんだぜ、やっとばれてしまったな、ずっとウソ
だったんだぜ、それでも続ける国だ... 」

・猛進するPR

チェルノブイリのあとに、原子力権力機構は、日本人が安全性をず
っと信じて疑わない手段を講じた。

原発経営者らは、施設に付属する"PRビル"という広報活動ビルを建
てるか又は刷新した。チェルノブイリ以前には、建物は、"専門的な
事がらに関心がある大人の男性"にアピールすることを意図したシ
ンプルな施設だったと施設を研究調査してきた天理大学の人類学者
Noriya Sumiharaは言った。作業着を着た男性ガイドが、大半は壁
のパネルから成る展示品のあちこちに見学者を連れて行った。

けれども、チェルノブイリのあとに、施設は若いお母さん向けに盛
り上がった手の込んだテーマパークに変えられた。リサーチが明ら
かにする若いお母さん層は原発と放射能について最も悩んでいたと
Sumihara氏は言った。ただいるだけで見学者を安心させるという
結果になる出産に適した年齢の女性たちがガイドとして雇われた。

日本の北(青森県)の町、東通にある最新のPRビルのひとつは小人
の住人がいる森、Tonttu(トントゥ:フィンランド語で森の妖精を
意味する)をテーマの基として作られる。建物はまた子どもたちや
若い両親を惹きつけるアニメキャラを使ってイベントも開催すると、
Tepco(東京電力)と共に敷地を運営する東北電力会社のスポーク
スマン、Yoshiki Oikawaは言った。

志賀では昨年10万人以上のお客さんがアリスが原子力の不可思議
を見つけるPRビルを訪れた。いも虫がアリスに放射能について安心
させて、チシャ猫が彼女にエネルギーについて学ばせるのを手伝う。
ウサギの巣穴に落ちる代りに、お菓子を食べたあとアリスは縮んで
隣接する志賀原発の1:25の縮尺模型に入る。

福島の災害以後、見学者らが原子力の安全性を疑いはじめていると
当地ガイド、27歳のホンダ・アスカは言った。 その多くが、やが
て生まれる子どもたちへの放射線の影響を心配する妊婦だった。け
れども、おおむね20代後半の女性であるホンダや他のガイドの存
在が妊婦たちを安心させるらしかった。

原子力権力機構はまた、もしかすると原子力の安全性への疑いを捨
てるかもしれない、政府が義務づける学校教科書が情報を十分に強
調しない手段を講じた。国会では1998年に国会議員になった東
電の副社長、加納時男が組織的な運動で采配を振るった。この記事
としてインタビューされるのを断わった加納氏は、昨年議員から身
を引いたあと、顧問として東電に帰った。

2004年、加納氏と他の原子力提唱者の勢力下に、文部省の役人
どもがそれを裏づけるより先に教科書への追加削除を言い渡した。
ある中学校の社会科教科書ではヨーロッパでの大きくなる反核運動
の論及が削除された。さらにチェルノブイリの論及が脚注に追いや
られた。

結果は、福島のあとたりとも、若い日本人が原子力弁護者であるの
を世論調査で目にすることができた。

原子力の権力機構自体が、みずからの安全神話を信じるに至って、
"自家製の落とし穴にもつれ込むことになる"と日本の原子力の歴史
に関する本の著者で、福島の災害の起因を調査する首相によって設
立された委員会のメンバーである吉岡仁は言った。

これが福島でなぜ東電が電源完全喪失の際に応急処置を断行しそな
ったか理由を解き明かすのに役立つと彼は言った。また、原子力権
力機構の安全神話の抱きかかえが、後知恵で何が日本の原発安全対
策で最も目立つ欠陥だったか解すのを可能たらしめると言っている
人もいる。津波という言葉を世界に提供した国で、巨大な波から施
設を守るため、福島第1であれどこかほかの所であれほとんど措置
が講じられていなかった。ドードーであれいも虫であれ、アリスに
津波について何たりとも言及しない。

宣伝に支払うのとは別に、"不思議の国のアリス"のキャラクターで
もって若者へのアピールにねらいをつける北陸電力志賀原発のよう
に、核産業は原子力施設で見せ物を祭り上げる。だが、原子力を支
持して日本人をもり返させる考え抜いた取り組みは、原子力時代の
発端までたどることができると学者や専門家は言う。

1945年8月、戦後日本の最も力強い首相のひとりになる、うら
若き海軍将校の中曽根康弘は、西日本に配置された。

「私は広島の上空に核のキノコ雲を見た」と中曽根氏は1960年
代の隨筆に書いた。「 その時、私は、来たる時代は原子力時代だと
察した。」

http://www.nytimes.com/2011/06/25/world/asia/25myth.html?_r=4&ref=global-home&pagewanted=all

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△ 加納前自民参院議員、東電に里帰り

東京電力副社長から財界代表として自民党参院議員となり2期12
年務めた加納時男氏(76)が”古巣”の東電顧問に就任していた。
議員時代、原発事故が発生するたびに原発擁護の質問をするなど、
文字通り、電力業界の代弁者として"活躍"してきた加納氏。勤務場
所は東京都千代田区内幸町の東電本社から300メートルと離れて
いない港区新橋の東電東新ビル7階の「東電顧問室」である。 

加納氏は、1998年の参院選で「経済界の声を直接国会に」と、
経団連組織候補として自民党公認で比例代表区に立候補、電力業界
ぐるみの選挙で当選した。

2期12年の参院議員在職中、自民党の参院副幹事長、エネルギー
政策小委員会事務局長、文部科学政務官、国土交通副大臣などを歴
任したが、東電で原子力本部副本部長も務めただけに原発推進の旗
振り役だった。

1999年9月30日茨城県東海村の核燃料製造会社「JCО」東
海事業所で発生した、死者2人、被ばく者数百人の臨界事故では、
参院経済・産業委員会で、「今回のが起こったからもう原子力はや
めちゃおうとか、ほかのエネルギー、自然エネルギーがあるからも
う原子力はなくてもいいというのは、合理的な議論とは思いません」
と質問した。

2004年8月9日、福井県美浜町の関西電力美浜原発3号機で高
温の蒸気が建物内に充満して作業員4人が死亡、7人がケガをする
事故が発生したときも、やはり同じ委員会で、「この事故があった
からといって、原子力やエネルギー政策を見直したり、核燃料政策
を変更すべきだとはならない。 あくまでも原子力発電、燃料サイク
ルについては、柔軟性を持ちつつも着実に国策として推進していく
んだということがエネルギー政策基本法の原則にもとづくもの」と
述べてきた。

このようにして電力業界の代弁者としての議員活動を続けてきた加
納氏は昨年7月の参院選で引退。今年2月1日経団連会館で「出版
と叙勲を祝う会」の1万円パーティーを開催した。これには東電の
勝俣恒久会長、清水正孝社長、日本経団連の今井敬名誉会長のほか、
自民党の谷垣禎一総裁、甘利明元経済産業相、石原伸晃幹事長らが
参加、勝俣会長が「経済界と政界の懸け橋に十二分になった」とそ
の労をねぎらった。

(引用元:赤旗 2011年5月4日)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-05-04/2011050411_01_1.html

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△自民 原発推進派はや始動 「原子力守る」政策会議発足

東京電力福島第一原発の事故に収束のメドが立たない中、 国策とし
て原発を推進してきた自民党内で早くも「原発維持」に向けた動き
が始まった。 原発推進派の議員が集まり、新しい政策会議を発足。
「反原発」の世論に対抗する狙いだ。

この会議は「エネルギー政策合同会議」。自民党内の経済産業部会、
電源立地及び原子力等調査会、石油等資源・エネルギー調査会の三
つを合体させた。電力需要対策とエネルギー戦略の再構築の検討を
目的に掲げるが、党幹部は「原発を守るためにつくった」と明かす。

幹部には原発推進派が名を連ねる。委員長は元経済産業相の甘利明
氏。旧通産省(現経産省)出身の細田博之元官房長官が委員長代理、
西村康稔衆院議員が副委員長に就いた。先月12日の会合では幹部
陣の隣に東電の元副社長で現在は東電顧問の加納時男・元参院議員
が「参与」として座った。

甘利氏は「安易に東電国有化に言及する閣僚がいる」と指摘する資
料を配布。会議後に河野太郎衆院議員が「原発推進派が並ぶ人事は
おかしい」と抗議したが、認められなかった。

自民党は中曽根康弘元首相らを中心に「国策・原子力」の旗を振っ
てきた。1955年研究と開発を進める原子力基本法を制定。74
年に「電源三法」を制定し、立地自治体に手厚く補助金を出してき
た。電力業界は資金と選挙で自民党を支援。電力各社でつくる電気
事業連合会(電事連)は80年代前半から11年間で約65億円を
党機関紙の広告費として自民党に支払った。

谷垣禎一総裁は震災後の3月17日の記者会見で「現状では、原発
を推進していくことは難しい状況」と述べたが、1週間後には「安
定的な電力供給ができないと製造業など維持できるのかという問題
もある」と軌道修正した。

甘利氏は「我々は市民活動家ではない。膨大なコストや不安定を覆
い隠し"自然エネルギーで何とかなる"と言うのは無責任だ。現実問
題として原子力をなくすわけにはいかない」と言っている。

(引用元:朝日新聞 2011年5月5日)


 


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