9月12日早朝、バグダッド中心部、ハイファストリートで激しい銃撃
戦があり、イラク人13人が死亡した。炎上する米軍装甲車の周りに集
まった一般の群衆に向けて米軍ヘリがミサイルを発射。そのときの惨状
を地上で爆撃を受ける側にいた記者が報告している。
この攻撃で負傷した英ガーディアン紙、G2のコラムニスト、ガイス・
アブドゥル・アハドが殺戮のシーンを説明して、立ち去ることができて
どんなにラッキーだったかをあばく。

▼彼は眠ってるんだと自分に言い聞かせた▼
by ガイス・アブドゥル・アハド The Guardian 14 Sep 2004

それは、日曜の朝の電話、「ハイファストリートでものすごい煙が上が
ってる」で始まった。半分寝ぼけたままボクはジーンズをはき、早朝に
腕前を示す暴徒に悪態をつく。駐車場でクルマの中に防弾ジャケットが
ないことに気づいたが、まずもって Humvee の下のIED(間に合わせに
作った爆発装置)だろうから、すぐに戻れると判断した。

ハイファストリートに向かう途中、全部終わっているか、アメリカ兵が
その地域を封鎖してることを半ば祈っていた。まだボクはナジャフから
立ち直ってはいなかった。

ハイファストリートはバグダッドをモダンに見せることになっていた計
画の一環で80年代初頭にサダムによって作られた。両脇にソヴィエト
の高いビルのある長くて広い大通り、それがカーテンのような機能を果
たし、バグダッドで最も貧しく、最もタフな人々、その多くはスンニ派
トライアングル(三角地帯)の中心からの出身者が住む、お粗末な路地
のネットワークを覆い隠す。

そこに到着すると、多数の子供と若い男たちが煙に向かっていた。「速
く走れ、もう長いこと燃えてるぞ!」。カメラをつかんで走り出すと、
誰かがそう叫んだ。

あと50メートルというところで数回爆発を聞いた。最初の煙がまだ昇
っていくところから道を隔てて、もうひとつ一面のほこりが上がった。
走り出した人々がボクに向かって押し寄せる。オレンジ色のつなぎを着
た男が、他の人は走っているのにひとり掃除していた。上空のヘリ数機
が向きを変えた。通りからわずかに引っ込んだところにある店の前の囲
いの中にボクは飛び込んだ。頭数10人が囲いの壁に隠れる。

数秒後、人が悲鳴を上げて叫ぶのが聞こえた。何かが起こったに違いな
い。ボクは声のする方に向かった。まだ壁の後ろにかがみながら。二人
の報道写真家が反対方向を走っていて、目と目が合った。

前方約20メートルに火を噴く巨大なモンスター、アメリカのブラッド
レー装甲車が見えた。それは孤立していて、扉が開き、燃えていた。ボ
クは止まって数枚写真を撮り、通りを渡って大勢の人の方に向かう。通
りには倒れてる人がいて、他の人がその周りに立っていた。ヘリがまだ
忙しく動き回っていたが、今は遠のく。

通りの真ん中でボクは危険に身をさらし気になったが、大勢の民間人が
ボクの周りにいた。12人の男がぐるりと負傷者を取り囲んでいた。負
傷者はみな悲鳴を上げながら、うめいていた。ひとりの男が負傷した男
のひとりを見て、自分の頭と胸を叩いた。「おまえか、兄弟?おまえな
のか?」。彼は手を伸ばそうとはしなかった、ただ突っ立って兄弟の血
にまみれた顔を見ていた。

血だらけの男がぽつんと座って辺りを見回し、その光景にびっくり仰天
した。Tシャツが破れ、背中から血が流れた。ふたりの男が片足の半分
から下がない意識のない少年を引きずっていた。捨てられた足の下にク
リーム状の液体と血の海ができる。もう片方の足はひどく裂けていた。

ボクが写真を撮るのに2、3分そこに立っていたときヘリが戻ってくる
のが聞こえた。全員走り出した、負傷者がどうなったか見るのにボクは
後ろを振り返らなかった。ボクたちはみんな同じ場所めがけて殺到して
いた。フェンスと建物のブロックとタバコ店として使われるプレハブの
コンクリートの箱へと。

2回爆発音を聞いたとき、ボクは箱の角まで着ていた。熱い空気が顔に
吹きかかるのを感じ、頭でなにかが燃えてるのを感じた。ボクは箱まで
はっていって後ろに隠れた。2メートルの幅もない空間に6人が割り込
んだ。カメラに血が滴りだしたが、ボクに考えられたのはどうやってレ
ンズを汚さずにしておくかだった。隣の40代の男は泣いていた。彼は
負傷してなかった。ただ泣いていた。ボクは怖くて無性に壁に身体を押
しつけたかった。ヘリが頭上を旋回した、そして直接ボクらめがけて撃
っているのがわかった。ボクは透明人間になりたかった。他人の下に隠
れたかった。

ヘリが少し遠のくと、ふたりの男が建物のそばに逃げ出した。ボクは若
い男といっしょにそこに留まった。多分、彼は20代初めで、革のブー
ツをはき運動用のトラックスーツを着ていた。彼は地面に座り両脚を前
に投げ出していたが、膝関節が不自然に外側にねじ曲がっていた。角の
あたりを凝視するとき彼の真下の土に血が流れた。ボクは彼の写真を撮
ることにした。彼がボクを見る、そしてまるでなにかを捜しているかの
ようにまた通りの方を見た。目を大きく開き、ずっと見ていた。

通りでは負傷者がみな置き去りにされていた。一面のほこりの中に座る
顔中血だらけの若い男が、顔を下にして倒れ込んだ。

箱の後ろの二人の男は知り合いだった。

ボクに近い方の男が、「どうだい元気か?」と聞く。彼は壁にもたれな
がら、携帯電話を引っぱり出そうとしていた。

「元気じゃないよ」。もうひとりのフェンスにもたれかかっている青い
Tシャツの若い男が言った。彼は骨が露出するほど肉がぞっくりえぐり
取られた腕を抱えている。

「頼む、クルマでここにきてくれ、負傷してるんだ」、片割れが携帯で
話している。

一方、膝がねじれた男は、かすかな音を立ててるだけだった。ボクは怖
くて彼に触れたくなかった。彼は大丈夫だ、悲鳴を上げてない、と自分
にずっと言い聞かせた。

悲鳴を上げてる、電話を持った男を助けることにした。彼のTシャツを
はぎ取り、頭の深い裂け目をそれでぎゅっと縛り付けるように言った。
だがボクは怯えていた。なにかしたくてもできなかった。過去にしてき
た応急措置の訓練をなんとか思い出そうとしてみたが、してるのは写真
を撮ることだけだった。

膝がねじれた男を振り返った。頭は歩道の縁石の上、両目は開けていた
が、かすかな音を立ててるだけだった。彼に話しかけることにした「心
配するな、大丈夫だからな」。彼の後ろから5人の負傷者がまだ倒れた
ままの通りの中央を見た。3人はほぼ積み重なっていた。少年が数メー
トル先に倒れている。

重なり合った男のひとりが頭をもたげ、顔に驚いた表情を浮かべて誰も
いない通りを見回した。それから目の前の少年を見ると、また後ろを向
いて地平線を見た。そうしてゆっくりと頭を地面にもっていき腕に頭を
載せて両手を彼に見えてるなにかに向かって伸ばした。さきほど兄弟を
助けようと胸を叩いていた男だった。彼は助けたかったが誰も助けなか
った。ボクの目の前で彼は死につつある。時は存在しなかった。誰もい
ない静まり返った通りは、共に死ぬ男たちが横たわる。彼が地面に滑る
ようにくずれる。そして5分後、通りに動きはなくなった。

ボクはかがんで彼らがいたところに向かって移動した。彼らは誰もいな
い通りの真ん中で腕を巻き付け合って眠る男のようだった。ボクは少年
の写真を撮りに行った。彼は眠ってるだけだと自分に言い続けた。彼を
目覚めさせたくなかった。さきほど、彼を引っ張ってきた人々に置き去
りにされた、足を切断された少年もそこにいた。装甲車はまだ燃えてい
た。

またぞろ子供たちが大胆にも通りに出てきた、そして死者と負傷者を好
奇の目で見る。そうして誰かが「ヘリだ!」と叫んでボクらは走った。
振り返ると、黒くて不吉な、二機の小さなヘリが見えた。ぎょっとして
ボクはふたつの爆発音を聞いたボクのシェルターに走って戻った。通り
の突き当たりではオレンジ色のつなぎを着た男が依然として通りを掃い
ていた。

膝が曲がった男は、もう意識がなかった。縁石の上の顔に動きはなかっ
た。子供たちがやって来て言った、「死んでる」。ボクは金切り声を上
げた。「そんなこと言うんじゃない!彼はまだ生きてる!彼が怯えるじ
ゃないか」。大丈夫かどうか彼に聞いたが、返事はなかった。

子供たちをそこに置き去りにする。膝の曲がった男、携帯の男、青いV
ネックTシャツの男はみなもう意識がなかった。そこで死ぬままに置き
去りにした。ボクはいっしょに連れてこようとさえしなかった。自分本
位にボクは逃れた。建物の入口に到達したとき誰かがボクの腕をつかみ
中に入れた。「負傷した男たちだ。写真を撮れ、アメリカの民主主義を
世界に見せてやれ」と彼は言った。全くの暗闇の廊下に横たわる男に誰
かが包帯を巻いていた。

建物には他にもジャーナリストがいると別の人が教えてくれた。彼らは
地下に通じる階段までボクを連れていった。そこには元気のいい丸ぽち
ゃの男、ロイターのカメラマンが頭の横にカメラを構えたまま倒れてい
た。彼は悲鳴を上げていなかったが、表情から苦痛がうかがえた。

ロイターの事務所に電話するのに、名前をなんとか思い出そうとしたが
ダメだった。彼は友人だった、何ヶ月もいっしょに仕事した。どの記者
会見でも顔を合わせていたのに名前を思い出せなかった。

そのうちに救急車がやって来た。他の人が隠れ家から姿を現したとき、
ボクは通りに走った。そしてみんなが負傷した民間人を救急車に運ぼう
とする。

「ダメだ、この人は死んでいる」と運転者が言った。「他の人にしてく
れ」

救急車が走り去り、ボクたちはみなちりぢりになった。そしてアメリカ
人は救急車には発砲しないがボクたちには発砲すると内心思いながら。
こういうシーンはもう何度も繰り返されてきた。救急車の音を耳にする
たびに通りに出てきて、それが行ってしまうとまた隠れに走る。

昨日、事務所でボクの写真を見ていた別の写真家が、「そうか、君が写
真を撮ったときには、アルアラビアのジャーナリストは生きていたのか
!」と叫んだ。

「アルアラビアのジャーナリストは見ていない」

彼は青いVネックTシャツの男の写真を指さした。それが彼だった。彼
は死んだ。ボクのシェルターを共有していた人たちは、全員死んだ。

▼世界を変えた19人の殺人者は許すべきでない▼
by ロバート・フィスク The Independent 11 Sep 2004

それはそうとニューヨーク、ワシントン、ペンシルヴァニアの人類社会
に対する国際犯罪から3年、私たちはファルージャを爆撃している。な
んだって?2001年9月11日ファルージャの名を知ってた人は手を
挙げて。あるいはサマワ。あるいはラマディ。あるいはアンバル地方。
あるいはアマラ。あるいは、たとえ大部分のアメリカ人が地図の上でそ
れがどこにあるかなかなか見つけられないといえども、「対テロ戦争」
で最新の標的のテルアファル(イラク北部を見て、モスルがあるだろ、
1インチ左がそこだよ)。ああ、最初に私たちがだまそうと実行すると
き、作るクモの巣は、なんてもつれていることか。

3年前、オサマビンラディンとアルカイダがすべてだった。それからそ
ろそろエンロン・スキャンダルのころには(私はニューヨークの教授の
おかげで話を変える瞬間を見抜く)、サダムと大量破壊兵器と45分と
イラクでの人権虐待だった。もうその他なにもかもは過去のできごと。
そうして今、とうとうアメリカはイラクの広大な地域が政府の支配の範
囲外なのを認める。始めからもう一度、そこを「解放」しなければなら
ないことになっている。

米軍のキミット准将によると「サドル師を殺すか捕まえるため」にナジ
ャフとクファを再解放したように、そして、私たちが町のテロリズムを
排除しようとしていたと主張した、あるいは少なくとも海兵隊がそう主
張した、4月にファルージャを包囲したように。時折の残虐な空襲をう
まく切り抜け、すべて政府の支配の範囲外にとどまる反乱者とファルー
ジャによって、現に地元軍司令官は首が飛んでいた。

この2週間、私たちアメリカ人に向けられるイラク人の憎悪の感情につ
いて多くを学んできた。1990年の私の報告書からさかのぼり形づく
りながら、1991年湾岸戦争での劣化ウラン弾使用における医者から
の憤り、50万人の子供を殺した制裁における激怒、私たち西側の人間
に向けられる深刻で長続きする恨み、私の手書きのイラク人の怒りの証
拠を次から次に見つけてきた(昨年もまた劣化ウラン弾を私たちは使っ
たが、これらのことは同時にひとつの激怒で引用することにしよう)。
1998年インディペンデント紙に私が書いたひとつの記事は、なぜ、
イラク人は私たちをバラバラに引き裂かないか疑問を発した。今年4月
にファルージャで殺されたアメリカ人傭兵に対して彼らがやったこと。

だが、私たちはこの人たちに愛され、歓迎され、迎えられて抱きしめら
れると期待した。まず、私たちは石器時代のアフガニスタンを爆撃し、
「解放した」と公に宣言してから、イラクもまた「解放する」ためにイ
ラクを侵略した。シーア派が私たちを大事にするはずがないだろ?私た
ちはサダム・フセインを殺さなかっただろ?ところで歴史は違う顛末を
教える。1920年代、私たちはシーア派イスラム教徒を支えとしてス
ンニ派イスラム教徒のファイサル王を厄介払いした。それから1991
年にサダムに反抗して立ち上がるようシーア派を元気づけた。そして彼
らを見捨て、サダムの拷問部屋で死ぬままにした。そして今、私たちは
サダムの昔のごろつきども、シーア派を拷問にかけた人たちを再び集め
る。そして「テロと戦う」ため、彼らを戻して権力を握らせる。そして
私たちはナジャフのサドル師を包囲する。

私たちにはみな2001年9月11日の記憶がある。私はアメリカに向
かう飛行機に乗っていた。私は、機内の衛星電話からインディペンデン
ト紙の外国部局が合衆国の大虐殺を告げたとき、機長やクルーにどう言
ったか憶えている。ありうる自殺パイロットを捜すため私は機内をうろ
ついた。13人ほど見つけたと思う。ああ、もちろん全員アラブ人で、
完全に無実だった。だがそれは私が生きることになっている新しい世界
について教えた。「やつら」と「私たち」。

機内の座席で私はその夜の新聞の記事を書くことにした。それから書く
のを止めて、書くよりもむしろ記事を話すことで必要な言葉を見いだせ
たので、ロンドンの外国部局に新聞のコピー係につないでくれるように
頼んだ。飛行機はヨーロッパに戻る前にアイルランドで燃料を投げ捨て
ていた。そこで、中東におけるウソと裏切りと狂気の沙汰に関する記事
を私は「しゃべった」。不正と残虐行為と戦争について。それでこうい
うことになったということを。

そしてこれが意味することを数日で知ることにもなる。単に9月11日
の殺害者たちがなぜむごたらしい行為を行ったか問うのは、「テロリズ
ム」を助けることになった。殺人者が心で何を思っていたか単純に問う
のは彼らに支持を与えることになった。どんな犯罪であれ、それに直面
させられる警官は動機を捜すものだ。だが、人間性に対する国際犯罪に
直面させられた私たちが動機を探すのは許されないことになった。アメ
リカと中東との関係、特にイスラエルとの関係の本質は無言のままであ
るべきで、疑問の余地のない主題のままにすることになっていた。

あれから3年、これが意味することを理解することになった。質問はす
るな。2001年12月、アフガンの群衆に殺されそうになったときで
もだ。彼らの親戚がB52の爆撃で殺されて怒り狂う群衆に。ウオールス
トリートジャーナルは、私は「他文化主義者」なのだから犠牲を「支払
わされて当然」と、ヘッドラインで披露した。それを教えてくれた母、
ペギーの手紙を私はいまも読む。ペギーはイスラエルで処刑されたナチ
の指導者、アドルフ・アイヒマンの娘だった。

1940年にペギーはRAF英国空軍にいて、損傷を受けたスピットファ
イアー(第二次大戦中の英国の単座戦闘機)の無線機を修理した。98
年の彼女の葬儀を思い起こした。だがまた、あのとき教会で、ビル・ク
リントン大統領がオサマビンラディンを狙ってアフガニスタンに巡航ミ
サイルを発射することで浪費したと同じだけパーキンソン病の研究に金
をかけていたら、私の母はこの木箱に入らずにすんだはずと、腹を立て
て提唱したのを思い出す。ビンラディンの名を口にしたのは、このとき
英国の教会内でが最初だったはずだ。

彼女は2001年9月11日を見逃した。だが、彼女がきっと私に同意
すると確信することがある。私たちの世界を変えたことで19人の殺人
者を許すべきでないということだ。ジョージ・ブッシュとトニー・ブレ
アは殺人者どもが世界を変えるのを確実にするためベストを尽くしてい
る。そのせいで私たちはイラクにいるのだ。

▲ロバート・フィスク:
中東・中央アジア専門のジャーナリスト、政治学博士。Independent 紙
中東特派員、The Nation 誌、Znetで執筆。ベイルート在中。
1985年ダブリンのトリニティー・カレッジで政治学の博士号、イギ
リスのランカスター大学で文学とジャーナリズムの名誉博士号を修得。
71年から75年タイムズ紙ベルファースト特派員、76年から87年
同紙中東特派員を経て、中東の今を伝え続ける。