若者は一番の戦争の犠牲者、一番の平和の成果だ。りっぱな人間に育て
るには20年かそれ以上の平和を要する、殺すには20秒の戦争しか要
さない。(ベルギーの国王、ボードワン一世)

合衆国が敵の兵士を殺すごとに50万ドル費やすとき、貧困の犠牲者が
年にわずか53ドルというのは悲劇的混乱だ。(マーティン・ルーサー
・キング師)

恐怖は真実をしゃべる癖がない。(ローマの歴史家、パブリアス・コー
ネリアス・タキトゥス)

▼Bluesan At Large▼ text by Bluesan

僕はアメリカ人である。アメリカ車へ世界が敬意と羨望の眼差しを向け
ている時代に、カリフォルニア州はハリウッドで生まれた。
そう、僕はしばらくこの世界で生きている。

過去十六年来一年のうち三、四か月間を日本で過ごしている。この「日
本時間」の大部分を東京西部で過ごしてきた。日本での僕を知る人々は
僕のことを「東京の地の利をタクシーの運転手並みに熟知する男」、と
呼ぶ。といわれても熟知しているのは西部のみであるが。だが、西部な
らタクシーの男より詳しくなっているかも知れない。
あの辺のほとんどの地域に住んだ。
新宿、池袋、目白、新大久保、練馬、中野、吉祥寺、福生、武蔵境、表
参道、千歳烏山、祖師ヶ谷大蔵、西馬込、永福町、そして自由が丘。こ
の十六年の間の交通手段は電車と自転車となっている。自転車、いわゆ
るマウンテンバイクはアメリカから持ってきた。日本製の自転車は小さ
すぎた。僕の足丈は、自慢じゃないが長く、がゆえにサドルの位置もそ
れに伴って高くなければならない。
道行く人々に寄ってこられ、「すごいじゃん」とサドルの位置の異様な
高さに毎度驚かれる奴、それが日本での僕の姿なのである。

十六年前から世界一の巨大都市とアメリカの間を行ったり来たりし始め
た理由とは。
当時アメリカはロナルド.レーガン大統領の不可解極まりない政策の下
で、経済は急降下中。
一方の日本はずば抜けた経済力を世界に知らしめていたところであった。
事実、僕自身も破産中であり、アメリカでの自身の「経済の架け橋」と
いうものを全て燃やし尽くしてしまっていたのだ。
僕は切に金が必要であった。日本にはそれがごっそりとあり、次第に自
分もその内のいくらかにありつくことができるかもしれないと考え始め
た。これが僕と日本の始まりである。
そして僕は小銭を稼ぐ二、三の方法を見つけただけでなく、日本を愛す
ることを覚えた。今日(こんにち)、日本は僕の魂の一部となり、僕と
日本は永遠に繋がったのである。

日本と言う最果ての地での生活。それは驚異であった。
なぜなら僕はマリンカウンティーで人がうらやむ生活を送っているから。
マリンカウンティー(以下マリン)は、サンフランシスコから金門橋(
ゴールデンゲートブリッジ)の反対側にある地域である。
アメリカンドリームの行く先がカリフォルニアというのなら、カリフォ
ルニアドリームの行く先がマリンであると言えよう。
金持ちのリベラルたちが居を構え、グレイトフルデットが故郷と呼び、
ヒッピーらの手によってマウンテンバイクが産み出され、ジョージ.ル
ーカス氏がスカイウオーカーランチと呼ばれる牧場を兼ねた撮影所を運
営している場所でもある。
アメリカで事が始まるのはカリフォルニアからであり、カリフォルニア
から事が始まるのはマリンからである。
七十年代にコカインがロサンゼルスを席巻する前にマリンにはそれがあ
ったし、ましてやそれがオマハ中の人々を滅茶苦茶に壊滅するのは、そ
のずっと後の出来事となっていた。因みにマリファナ農家の主人が有機
栽培で育てた最高の品物を売りさばく場所もマリンである。マリン人に
はそんな甲斐性があり、故にスタンダードがある。マリンカウンティー
とはそんな場所なのである。

タカ派のブッシュ好きはマリンを嫌う。
マリンをざっと見渡しただけでも彼らの気持ちを理解するのは簡単なこ
とだ。真っ先に目に付くのは各々の車のバンパーに貼り付けられた、「
ブッシュを弾劾せよ」のステッカー。一方で、健康的な身なりの人々が
賑わったナチュラルフードストアで夕飯の買出しをしている。憎まれ者
の「ブッシュら」は彼らが決してマリンに融合できないことを知ってい
る。そしてマリンをゴミの溜まり場のように嫌う。
まあ、僕の気にするところではないのだが。

おわかりのとおり、僕はマリンを「家」と呼ぶことに誇りを持っていて、
マリンでの生活をあとに日本にやって来ることは誠に一大決心であった。
しかし背に腹は抱えられず。金銭の欠乏。ある人は家財一切をショッピ
ングカートに詰め込み、それをふらふら押しながら、日々をそこいらの
公園だの丘の上だので過ごすのだ。
しかし僕はハリウッドで生まれ、バークレーで学び、マリンカウンティ
ーに住む。
そんな自尊心が僕の中にあった。
自分にできそうなことを必死で搾り出し、あちらこちらを奔走し、何と
か見繕いし、日本へと飛んだ。もちろん席はファーストクラスで。ぼろ
は着てても心は錦。

突然だが、東京には欠点が二つある。
一つは「空気」どうして三百五十万もの人々がごった返して暮らす中で
清潔な空気が生まれると言うのだ。
もう一つは「人口」始めて東京を目の当たりにして、僕は自分の目が信
じられなかった。混みあった電車は想像を絶する体験である。東京生活
で気を付けることは、突然体をよじったりしないこと。思いもがけず、
背後にいらしたおばさま三人を肘でノックアウト、何てことも実際起こ
りうる。

しかし東京は意外にも静かな場所だ。
東京生活の醍醐味は、夜の路地裏を歩きながら、民家から聞こえてくる
人々の生活にふと出会うことである。外に立って星の数ほどの家屋の群
れの中でピアノや三味線の音色に耳を傾ける。ついているときにはお琴
の調べに預かることもできる。我輩の初めての鶯の歌は四谷にたたずむ
仏像のそばだったと記憶している。
だが、僕はいまだに三百五十万の人々の息も詰まるよな生活空間を忘れ
ることができない。ただひたすらそこにあるただの音。そして、叫び声
にも似た、創られた「創音」。産み出された音は至る所にある。

僕にはもっと鶯の歌声が必要であり、そこで家内の佳子に、「さて、新
しい住まいを見つけよう」、と提案してみた。より静かで空気のおいし
い何処かよその場所へ。
というわけで僕達は鵠沼、という場所へやって来た。僕達は東京が大好
きだ。しかしきれいな空気と静寂のある暮らしに取って代わるものって
あるだろうか?

おしまいに、「Bluesan At Large」は度々印刷物に載って現れる。書か
れているものは概して僕自身とこの地球上での生活のことである。日本
について、アメリカについて、あるいは僕に書く動機をくれる何処かほ
かの場所について。
僕の書いたものがどうか読み手の人々の思慮の中に何かを反射させるこ
とを願う。
そしてその人々に美しい笑顔をもたらすことも強く願っている。