▼スピルバーグの映画「ミュンヘン」▼Jewish Voice for Peace
25 Dec.2005

スピルバーグ監督の新作「ミュンヘン」はすでにかなりの論争を招いて
いる。スピルバーグは暴力の「永久運動マシーン」を発表し、おそらく
パレスチナ人を意味するんであろう、掛かり合った「悪」を無視する、
と保守的なニューヨークタイムズ紙のコラムニスト、デイヴィッド・ブ
ルックスは述べた。右翼団体CAMERAは、スピルバーグ監督と脚本家ト
ニー・クシュナーはパレスチナ人たちを愚かな殺人鬼というよりも人間
として描くと仰天する。Jewish Voice for Peace に身を置く私たちは
イスラエル人とパレスチナ人の権利を等しく重んじるという永久の平和
のために努力して進む。中東地域のアメリカの外交政策を変えるために
はたらくことと、国際法の枠組み内で、イスラエル人とパレスチナ人を
平等に扱うという政策を要求するユダヤ人を増すことでそれを行う。

リアリティとは?

映画「ミュンヘン」は、ミュンヘンオリンピック大虐殺を首謀者として
指揮したのだと言われているパレスチナ人たちを殺すために送られた、
イスラエル機密情報機関モサドの暗殺者チームのリーダー、アヴナーと
いう人物をもってイスラエルの歴史を物語る。そのぎょっとする行為を
永久不滅にする、少しの言い訳も正当化もだめである。ユダヤ人であろ
うとなかろうと、善悪の観念のある人に関心のある2つの問題を持ち出
す:映画で知る暴力が、なんとしてでも平和へと導く希望はあるのか?
そのすさまじさは道義的に正当化されてよいものなのか?そして、映画
を見た人なら、きっとどちらの疑問に対する答えも明確な「ノー!」で
あるとの気持ちを抱いて映画館を去る。

1972年のミュンヘンオリンピックでブラックセプテンバーと名乗る
集団の8人のパレスチナ人テロリストが9人のイスラエル選手を人質に
取った。結局は、イスラエル選手全員がドイツの警察によるぎこちない
救出の試みの最中に殺された。5人のパレスチナ人が殺され3人が捕ま
ったのに、後にハイジャック機が3人の引き渡しを求めて解放された。
イスラエルがただちに応酬してレバノンとシリアの難民キャンプ内にあ
るパレスチナ解放機構の母体を爆撃したことは映画では手短に触れただ
けである。それによって200人を越えるパレスチナ人が殺されるか負
傷した(正確な数は入手できないにもかかわらず、映画は殺された人数
は60人と言う)。その圧倒的多数が罪のない一般の難民だった。

シリアとレバノンの難民キャンプへの攻撃が映画ではついでに触れられ
るが、そのような攻撃が正当化されるかどうかはミュンヘンが扱うこと
にした問題ではなかった。これは決して映画についての非難ではない。
ミュンヘンはいの一番に娯楽作品である。すでにとても長い映画である
し、批判するには及ばないこれ以上騒ぎ立てるには及ばないほどの問題
を引き受ける。

ブラックセプテンバーの指導者とPLO の重鎮らを追いつめて殺す、ミュ
ンヘン大虐殺に引き続いて取りかかるモサドの計画を映画は記録に留め
る。史実に基づいた事実の不十分を理由に映画は攻撃されている。これ
が、2つの理由で不明瞭になるとの批判。ひとつは、正確に言うと史実
に基づいた描写を映画は求めない。実際の出来事をベースにした娯楽作
品であり、その趣意でまず拒否者から始める。次に、事実上どれも隠れ
た計画ゆえに、証明できる事実は貧弱で手に入れるのは難しい。この場
合、機密扱いにされた情報であるのみならず、イスラエルはこの計画が
起こったとは一度も認めてきていない。そして立証させるのはもっと困
難でさえある。映画の不正確さについての不平は、映画がベースにした
本の作者より、違う人の証言によって行われているにすぎない。

だが、いろいろ話に聞くせいで、ミュンヘンはパレスチナ人の立場を探
る映画と考えるむきもあるに違いない。実際に私は映画を見た、パレス
チナ人の登場人物が幾分か探られる、一般性の低いわき筋を期待した。
そんなものはなかった。重ねて、これは映画に対する非難ではない。映
画はイスラエルとイスラエル人についてだ。だが、これは映画に対する
批判がいかに極端かを強調するものである。

ブラックセプテンバーとは?

ブラックセプテンバーは、PLO の主力部隊ファタハの別機動部隊(極秘
テログループ)だった。(イスラエル以外の国でテロを行う場合の国際
世論の隠れ蓑として作った。バックアップはリビア)ヨルダンで蜂起し
たパレスチナ人に対するヨルダン軍による1970年9月の猛攻撃から
名前を取った。当時、ファタハとPLO はもっと政治的な指導部になるた
めにより広く努力していたし、テロリストの攻撃から間隔を置こうとし
ていた。だが、イスラエルに対する闘志はパレスチナのストリートでは
とても人気があった、そしてファタハは暴力による闘争をあきらめると
見られても差し支えないとは考えなかった。そこでパレスチナの大義の
名で暴力による措置を講ずる分派、ブラックセプテンバーが作られた。
同時に主力のファタハ指導部をそういう活動から分離した距離に保たせ
る。ブラックセプテンバーはファタハよりずっと暴力による攻撃に従事
した分派、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)といっしょにはたらいた。
これが、相変わらず戦闘行為と関連したままでないばかりか、ファタハ
とPFLP が対立する党派間の分裂からPLO を防ぐという恩恵をファタハ
に与える。

ブラックセプテンバーの活動はイスラエルに対する攻撃に制限されなか
った。彼らの最初の重大な行動はヨルダンの首相の暗殺だった。最初、
彼らの攻撃の大部分はヨルダンかサウジの標的に対してだった、後にイ
スラエルとアメリカの標的にも焦点を合わせる。

だが、実際にグループを傑出させたのはミュンヘンだった。イスラエル
と占領された自治領内での攻撃とは全く異なって、国際的なテロリズム
でブラックセプテンバーそのものの重要さに加えて、ブラックセプテン
バーの指導者らを追いつめるイスラエルの作戦は世界のいたるところで
互いを追いつめて殺しあう極秘作戦のせいで、時に「スパイ戦争」と呼
ばれるものの原因となった。1973年の秋、世界を攻撃しまわるのは
有効というより彼らの危害の原因となっているとPLO は決定してブラッ
クセプテンバーを解散した。しかしながらこの時までに国際的な秘密の
組織が作られており、小さいがうまくつながったパレスチナ人グループ
が何年もイスラエルとアメリカの標的にもっと多くの攻撃を実行した。
パレスチナ人の暴力が広くイスラエルと占領された自治領に限られたの
は、1987年の最初のインティファーダまでなかった。

ミュンヘンのパレスチナ人たち

スピルバーグとクシュナーは、イスラエル人とパレスチナ人の両者が同
じ場所にある祖国を慕うせいで、両者が戦っているのをあるシーンで見
せる。それぞれの側の正当性について異なる要点を一方が主張すること
はできる、だが両方の側がもう一方に対する憎しみによって動機づけら
れると強く主張するのは、どちらも正しくないし役に立たない。他の点
ではなしに、憎しみを促進する戦闘だと、JVP は言う。

さらに、スピルバーグとクシュナーは、軍事力を通してイスラエル国家
を確実にするという問題を熟考する。イスラエルは常にゴールに到達す
るのに軍事力を使わなければならなかったという、映画で繰り返される
自認のことばに、ブルックスや他の保守的コラムニストが不愉快なのは
驚くにあたらない。「彼らパレスチナ人たちは私たちイスラエル人を傷
つけたくはなかった、私たちは武力を使わなければならなかった」と、
主人公アヴナーの母親が言う。

保守過激派のブルックスや右翼団体CAMERAの人々はパレスチナ人の追
い立てと長年の戦闘で用いてきた狂暴なイスラエル人はどんな道義的問
題も持ち出さないと考えたいようである。だが、私たちの大部分が彼ら
が道義的問題を持ち出すと実感する。

ミュンヘンでスピルバーグとクシュナーは、モサドの計画によって殺さ
れたパレスチナ人たちが人間であったことを具体的に説明する手段を講
じる。これはオリンピック大虐殺と関係があった人の容疑を晴らすこと
にはならない。事を面倒にさせる種は、映画の中で暗殺の標的にされる
11人のパレスチナ人は全員が大虐殺にかかわっていたわけではないと
いう事実である。映画はついにこの紛れもない問題を持ち出す。そして
実際に、名だたる標的リストにあるパレスチナ人の数の点では、問題に
されてきている。秘密工作でのトラブルはまさに証拠がたいてい乏しい
ことである。そして彼らが復讐している行為と本当に関係があったかど
うか、計画立案者が知ろうが知るまいがどっちみち工作は多くの場合グ
ループと関連する人々を標的にする。実際、これが敵討ち・復讐という
すべての行為も同然の特徴なのだ。クシュナーとスピルバーグが映画全
般で復讐という行為に異議を唱えるように思われるのも、きっとこのせ
いなのだ。

だが、結局はイスラエル国民についての映画であり、私たちが知り得る
のはイスラエル人だ。パレスチナ人は、総称的な深みのない全くの邪悪
なテロリスト、以上として描かれるが映画で彼らについてどんなことも
知り得ない。家族のいるパレスチナ人のひとりを見るにすぎない。そし
てどんな登場人物のなりゆきについてより、もしかすると計画で殺され
るかもしれない彼の娘について、いっそう大きく緊張状態を作ることに
なる。パレスチナ人たちが祖国を慕うと私たちは聞くが、もっと深く彼
らの暮らしを理解しようとしてこなかった。何がああいう恐ろしい暴力
に彼らを駆り立てるのか、理解しようとしてこなかった。

再度これは映画が描こうとすることではないし、さらにそういうシーン
を入れるために二人が映画を長くするのは無理な要求というもの。だが
最初に言及した保守過激派がこの映画に対していかに乱暴にやりすぎて
いるかは明らかにする。

私たちが作ろうとする映画ではないとはいえ、ミュンヘンは重要な問題
を持ち出す。しかしながら、イスラエル人が支払った恐ろしい代償はも
ちろん、イスラエル人と道義的ジレンマを明らかにすることでは、よく
やっているし、これは重要だ。ユダヤ人として、アメリカ人として、私
たちがイスラエル人が行うイスラエルの行動と計画について同じ問題を
持ち出すことは重要である。ミュンヘンの設定は1970年代というの
がこれらの問題を持ち出しやすくする。当時のイスラエル人は将来の可
能性について今より幾分か世をすねるのに劣った。(第二次インティフ
ァーダに対するすばらしい措置と2000年キャンプデイヴィッドでの
バラク首相の寛大な申し出というすばらしいウソのおかげで今はこうも
皮肉になっている)だが、私たちが求める必要があるのはこれらの問題
である。イスラエルとパレスチナ人について、政治的保護と資金供給の
両方による米国のイスラエル政策支援について、そして、いわゆる「対
テロ戦争」とやらでのアメリカの政策についてもである。

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▼名前の由来は ヨルダン国王がPLOを虐殺した
1970年9月の「ブラックセプテンバー事件」▼

第3次中東戦争に敗北するまで、PLOは本部をヨルダンに置き、全て
の活動をここから行なっていた。だが、1968年の夏、イスラエルに
ゲリラを送り込む唯一のルートであったヨルダン川の西側はイスラエル
治安局「シン・ベト」によって完全に封鎖されてしまう。結果として、
ヨルダンにいたPLOゲリラ兵士は身動きとれない状態に追い込まれた。
彼らはそのはけ口をヨルダン国内に向け始める。そして資金集めのため
に税金を取り立てたり、通行税を設けることで、一国の中に別国家を作
り上げるような状態をもたらすことになった。

ヨルダンのフセイン国王は、それまで一貫してPLOを支持してきた。
彼は1964年にPLOが発足した時、まっさきに訓練基地を提供して
いる。だが、PLOがヨルダン国内で横暴な態度を取り始めると、国王
はPLOに対し、ヨルダン国内での行動を慎むよう繰り返し警告した。
だが、PLOはそれを無視してますますその活動をエスカレートさせて
いった。

ヨルダンの国王を最も悩ませたのはパレスチナゲリラに対するイスラエ
ル軍の執拗な報復攻撃だった。1965年から1977年の13年間に
8477件のパレスチナゲリラによるイスラエル攻撃が記録されている
が、その55%が1969年と1970年の2年間に集中しており、そ
のほとんどがヨルダン領から出撃したものだった。その結果、当然のこ
とながら、イスラエルの報復の矛先もまたそのほとんどがヨルダン領に
向けられたものだった。

1970年9月、ついにフセイン国王の堪忍袋の緒が切れ、彼はPLO
撲滅に踏み出す。彼の軍隊の中でもエリート部隊を構成するのが「ベド
ウィン族兵士」だったが、長いあいだPLOの身勝手な振る舞いを苦々
しく思っていた彼らは、喜んでフセイン国王の命令を実行した。彼らの
手によって虐殺されたPLO兵士は5000人以上にのぼる。彼らの手
を逃れた者は、我先にとヨルダン川を渡ってイスラエル軍に降伏した。
このヨルダンのフセイン国王によるPLO虐殺がいわゆる、「ブラック
セプテンバー事件」である。

こうしてイスラエルの東に位置するヨルダンという理想的な活動基地を
失ったPLOは、イスラエルの北に位置するレバノンに移動を始める。
だが対イスラエル・ゲリラ戦が限界に直面しつつあるのは事実だった。
アラファト議長率いる「ファタハ」のライバルであるPFLPはこれを
いち早く感じ取り、その戦略の主軸を海外でのテロ活動に切り換えた。
他のグループも続々とPFLPに続いた。対イスラエル・ゲリラ戦を提
唱していた「ファタハ」のPLO内部での支持率は急速に低下し、脱退
して他のグループに加わるメンバーも多かった。

このままの状態が続けばPLO内でのリーダーシップを失うと見たアラ
ファトを始めとする「ファタハ」の幹部たちは、戦略切り換えの必要性
に迫られた。だが、その活動をテロではなく対イスラエル・ゲリラ戦に
限定していた手前、そう簡単に切り換えるわけにもいかない。「ファタ
ハ」のイメージダウンにつながる。

このジレンマの答えとして出されたのが極秘テログループの設立であっ
た。そしてかの憎むべきヨルダンの国王の裏切り行為にちなんで、グル
ープは「ブラックセプテンバー」と名付けられた。

「ブラックセプテンバー」が最初に実行したテロ行為は1971年、カ
イロにおけるヨルダン首相の暗殺だった。ヨルダンに復讐を果たしたグ
ループは、この後、派手な国際テロ活動に手を染めていく。

参考:ヘブライの館 (THE HEXAGON)
http://www02.so-net.or.jp/~inri2039