黒い反抗 バスキア

広く大衆に語りかける表現力を備えた作品は既成のアート界から蔑視される。
ウォーホルがアメリカの美術館から長いあいだ敬遠されてきたのもまさにこのせいだった。同じことがジャン=ミッシェル・バスキアにも言える。バスキアはいわゆる恐るべき子供のひとりとして扱われてプリミティヴな具象派としてくくられた。知って置かなきゃならないのは、すでに多数の理解者がいるアーティストに対して美術館は反感を抱くということなんだ。(トニー・シャフラジ:「キース・ヘリング」から抜粋)

生存している黒人画家を公平に扱おうとしない白人至上主義の批評家とキュレーターはたくさんいる。それにもかかわらずアーティスト遺伝子を持ってブルックリンに生まれたバスキアは21歳の若さで信望のあるドイツのアートフェア「ドクメンタ」まで登りつめた。あらゆる人種の男性アーティストが街中の現場を飛び回っていた80年代初めのほんの一時期、バスキアは体制に滑り込む。レーガン=ブッシュ政権が長引くにつれ人種差別が以前にも増してはびこりだし世論はバスキアとグラフィティの達人すべてに嫌悪を抱き始める。バスキアはあらゆる世代のアーティストから称賛される一方で平静さを乱していく。
バスキアはものすごいエゴの持ち主で日和見主義のパーティボーイだと簡単に片づけられた。高価なスーツを着て絵を描き、最高のレストランで食事をする。コニーアイランドでコースターにでも乗るような態度で仲間と一緒にニューヨーク中をリムジンで走り抜けてものすごい量のドラッグをやった。 世界中のディーラーとコレクターが「これはすごい!」と彼の作品を奪い合うようになるとアート界に対する彼の熱は一気に冷める。27歳の若さでヘロインの過剰摂取というショッキングな死に至るまさに派手に燃えてあっけなく燃え尽きたルードボーイは美術史のなかに自分の居場所を確保する前に死んでしまったから彼はキングだったのか?それともペテン師だったのか?決めかねてアート界が二分された。
そうしてようやく公的な美術館がジャン=ミッシェル・バスキアをまともに取り上げる時が来た。
度胸はあるが美術館規格のバスキアの回顧展が今年(93年)2月14日までニューヨークのウイットニー美術館で開催された。これはウイットニー美術館が若くて過激な黒人アーティストに引っ込みのつかないことをした最初の選択でキュレーターのリチャード・マーシャルは賛辞を述べられてしかる
べきだ。バスキアはそのすごいストーリーが本になり同業者ジュリアン・シュナーベル企画の映画になるほどの80年代の模範的な黒人アーティスト。ストリートでグラフィティ製作を開始、彼が評価するウォーホルやラウンシェンバーグのようなアーティストになりたくてギャラリーに移行、それからは死に向かってひるむことなく落ちていく。今ではニューヨーク生まれのマルチカルチャーの出現と同等に批評家からも評価されている。
アーティストの本質的な側面と特別の手腕を見せる初期のドローイング作品が欠如しているとはいえこの回顧展は今の都会の若いアーティストと観客に意味のあるインパクトをもたらすはずだ。というのも彼は非常に今日的な画家であり、彼の作品が目下の政治に関わる文化とアーティストの自我を探し求めることに振り向けられているからだ。
作品のほとんどが抽象なのに表立ったテーマは常に人種のアイデンティティ。彼の祖先はハイチ人とプエルトリコ人。何を見るにしてもこれがバスキアのレンズだった。そして彼の絵は繰り返しアーティストの怒りを説明した。バスキアはキャンヴァスの上に絵と主題を結び併せることができるすばらしい詩人だったのに、その私生活に較べるとどちらも大雑把にしか言及されてこなかった。

キース・ヘリングマ 70年代終わり頃、街に「SAMO 」とサインの入った落書きが目につきだしたんだ。一年経ってもまだ誰が描いてるのか見当もつかなかったが僕は注意深く作品を見守っていた。ただ名前を描くとか決まった形のマークを描くってのを越えていて文学的な落書きとでも呼びたい代物だったが、とにかくそんなものはこれまで見たことなかった。詩とか意見表明みたいなもので観念的な思考を言い表したものが街中に描かれるんだ。僕には凝縮された詩に思えたし、見る者の足を止めて考えさせる力があると思った。 後でこれを描いたのはジャン=ミッシェル・バスキアだとわかった。彼は肌の色があまり濃くない黒人の若者で髪がドレッドロックだったかは憶えてないけど周囲の連中とは違いユニークでおもしろかったので目立っていた。僕らと同じようにカラーゼロックスで作品を作っていて(当時できたてのこれでみんなが作品を作っていた)作品とポストカードを近代美術館の前で売ろうとしてた。
彼は物質的なものとか人が大切にするようなものを心底軽蔑していた。彼のモノや権威に対する軽蔑がモノに取り憑かれることのくだらなさとか妙な執着心に目を開かせた。ジャン=ミッシェルはものごとの真相を暴いて、人にそれを突きつけて、別の見方で迫れたってことなんだ。
「クラブ57」でやった僕がキュレーターの招待作品展にジャン=ミッシェルを招待したんだ。知り合いの全員に呼びかけて一晩だけのオープニ
ングをやろうってわけでさ。ジャン=ミッシェルも来たんだけど手ぶらなんだよ。参加するのかしないのか聞くとズボンのポケットからしわくちゃになったドローイングを引っぱり出して壁に貼りつけたんだ!

ファブ・ファイヴ・フレッドマ SAMO で知られる落書き屋は白人のコンセプチュアル・アーティストって話だった。 1978年にパーティで初めて会ったときやつはすごく突飛だったな。リー・キナンズと俺が絵を描いてるスタジオで一緒にやらないかとジャン=ミッシェルを誘ったんだ。俺たちは本物のソーホーのアーティストみたいでいっつもでかい音量で音楽を流してた。誰もまだ聞いたことがないブロンクスのパーティでかかってるヒップホップのテープなんかを流してたよ。昼間絵を描く以外は最新のレコードは?最新のダンスは?とクラブに出掛けていきたくさんの音楽を聞いて踊りまくったもんだ。
ジャン=ミッシェルはジャズとビーバップをたくさん聞き出した。俺がやつのために当時反目してたチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーの<SALT PEANUTS >の演奏を聴かせると「まるで同じだな」と言ったよ。ストリートではヒップホップが全盛でブロンクスのラップ・ジャム・アップではグランドマスター・フラッシュとグランドウィザード・セオドアがDJ 合戦をやっていた。スクラッチとターンテーブルのテクニックを創り出したのがこの二人で、彼らは数枚のレコードを流してはそれをカット、スライス、ダイスしてリミックスした。それは作家ウイリアム・バロウズのカットアップ論、絵画のコラージュ、キュビズム。そのすべてが行われていた。やつが言った「まるで同じ」というのはヒップホップのDJ 合戦でやってることとチャーリーとディジーの戦いのことで、やつはすべてはジャズ・ヒップホップ・コラボレーションだと理解したんだよ。それが10年前のこと。
ジャン=ミッシェルはリムジンから降りて仕事に戻ると真剣そのものだった。やつの生き方が作品みたいなものだから本物の取引ってことだよ。今では作品だけが残ってるが永久に人を悩ませるイメージがあるなんて断然クールだ。絵を見て生きてた歴史の節
目の世界を思い出す。重要なのは時代の一部になることだ。やつは永遠にその時代と関係する。アーティストとしてできる最高のことだよ。
やつの回顧展に俺が期待するのは人がやつの作品を、やつがしたことを見ようって気になることだ。でもその前に自分自身を見つめてもらいたい。人が逃げたくなる心や精神に巣くう人種差別なんかを。そうすればブルックリンのストリート出身の乱暴な野蛮人の黒人というイメージを持たずにアートを見つめることができる。オープニングとは楽しいものじゃない、ギャラリーとは静かで清潔で...... そういった関門を実際にコントロールするアート界の態度からはそう見られている。 黒人のすぐれた陸上選手なら「生まれつきだろ。大したことじゃない」と人は言う。 やつは絵を研究して追い求めた。やつは本も読む。やつはヴァイオリンやピアノの天才と同じ即座に吸収して新しい解釈ができる本物の創造的人間のひとりだ。人はやつがまるで眠ってるうちに絵を描いたみたいな変な雰囲気を作り上げて作品を眺めようとするが事実はとても明確な手法があって意識的にやったことなんだよ。

▲TAMA- 12 掲載、CHILL 1993
●参考資料:VOICE NOV.3,1992 INTERVIEW OCT.1992
●キース・ヘリング:ジョン・グルーエン著 リブロポート