映画「The Cup 」
なんともすごい新世代のラマ僧たち


98年カンヌ映画祭監督週間で上映された「The Cup 」で注目の映画デビューを果たしたブータン生まれの監督キエンツェ・ノーブはチベット賢者の3度目の生まれ変わりと認知される名誉あるラマ僧 Rinpoche だった。
映画は若い修行僧が夜こっそり抜け出して町にワールドカップを見に行くシーンがチベット仏教の新旧世代間の大きな文化的隔たりを見事に捕らえる。  

仏教寺院の大僧侶が常に祖国に帰る日を夢見ながらも多分このまま亡命死すると実感する一方で、若い僧侶はサッカーチームを夢見て大きな試合の前に国家を歌うのを夢見る。
彼らのチベットに対する愛は抽象的で政治的だ。ブラジルのロナウドがたとえ世界一の選手でもワールドカップの決勝戦ではいつもチベットを支持してくれるフランスを応援すべきだと主張する。
修行せずに仏教のエッセンスを保護するのは無理とわかっていながらサッカーの優勝杯を勝ち取るビジネスの重要性も理解する登場人物、二つの世代のまとめ役 Geko の悩みに共鳴する38歳の監督が「ではどうするか」で選んだ道が問題に注意を向ける賞を取る映画を作ることだった。
カメラの後ろに立っていないとき、彼はたいてい世界を旅して仏教の瞑想と哲学を教えている。  

ノーブは、進んで流暢な英語と近代メディア経由で教えを組織化するやる気と直接体験で得た東洋と西洋の文化の違いを理解する思慮を伝統の鍛錬に併用させる新世代のチベット仏教の教師のひとりだ。彼らが教えるスタイルはそのパーソナリティ同様、多様だったが彼ら全員に胸のすくような心の落ち着きと異端さがあり、さらにこの太古の知恵を紹介する全く現代的なスタイルがあった。
「クレイジーな賢人」あるいは「のんきな気高さ」、その形容がなんであれユーモアの要素が不可欠なのは間違いなかった。  
偉大な指導者ダライ・ラマ14世と一緒に瞑想したノーブは、ブッダの教えを護り広めるために精力的に働いてインド、ブータン、オーストラリア、北米、極東にダルマセンターや大学を設立してきた。そんな古風な鍛錬にもかかわらず映画という媒体を通して進んでコミュニケートする彼のやる気プラス人を安心させる率直さ、直接教えるスタイルが彼を現行の欧米で最も刺激的かつ現代的な仏教解釈者のひとりにする。西欧での仏教の広がりに映画「The Cup 」の成功がピボットのような目的を果たす。  

中国の人民解放軍がチベットを侵略して40年、それは国を取り仕切るほど高層のラマ僧の大量脱出を引き起こす。何世紀もの間チベットは地球上で最も人目に触れない場所だった。その見事な隔離状態の中でチベットは文明を保護し養い、奥深い太古の学問=ブッダの教えの周辺にその文明を組み立ててきた。(この辺のことはスコセッシの映画「クンドゥン」をぜひ見て欲しい)
中国の侵略でこの偉大なラマ僧は難民となり、インドはヒマラヤ山脈麓の丘陵地帯にある仮のキャンプ(ダラムサラ)に落ち着く。
10年後、この精神の巨人たちからなんとしても学びたい最初のヨーロッパ人とアメリカ人旅行者がキャンプを訪れ出す。この初期の欧米人生徒が深く感銘を受けたのは、土地・富・ステイタスという欧米での価値の条件を全部失ってもなお光を放つ精神性を持ち続けるチベット人の簡素、温情、ユーモア、そして知恵だった。
それとは対照的に欧米人は精神の感覚を失いどぎまぎしてチベット人のところにやって来た。  
当時チベット仏教を学びたいと願う欧米人には通訳を見つけるかチベット語を学ぶかの選択肢しかなかった。生徒と教師の文化境界線はまだまだ桁外れで、よく相互不理解に陥ったものだった。とはいえダライ・ラマの監督下で海外に送られる若きラマ僧が英語を完璧にするための英語教育のプログラムがインドに定着し出す。
1967年仏教寺院を開設したスコットランドで若き異端の師が因習打破のスタイルでアメリカ人学生を蘇らせるまでになる。  
1992年、英語が流暢で欧米文化にすっかり夢中のSogyal Rinpoche のカルマ・再生・死のプロセスについての伝統的仏教の教えを新鮮かつ理解しやすい現代スタイルで歯切れよく表現した本「Tibetan Book Of Living And Dying 」が世界中でベストセラーになる。
その欧米でのブッダの学問に栄養を与える開拓者の列に続く新世代のラマ僧が登場している。「The Cup 」でカメオ的役割を演じるニンマ派の後継者Dzigar もそのひとりでコロラドを基盤に絶えず世界中を旅している。  

この新世代のラマ僧全員に共通するのが欧米文化に対する鋭い眼識で、伝統的なアジアの精神的教師が物質万能主義に絶望するのに、彼らはひょっとしてよく似た顔の東洋人より欧米人のほうが精神的生活に順応するのではと考える。
「精神的アプローチは欧米で重んじられる自由と独立の精神に見事に適合する。というかこの自由と反抗の感覚が東洋のメンタリティには合わない。だから大胆に心から精神の道をたどるのは欧米人には簡単なことかもしれないんだ。とりわけ仏教は欧米の近代文明に味方する人物と共鳴する。ブッダ、キリスト、他の精神的指導者の多くが当時は革命家だったでしょ。欧米人がもし自由の追求を深められれば精神的価値が世界の隅々にまで行き渡ると期待するのに十分な理由だよ」

●参考資料:i-D des. 1999
●TAMA- 27 掲載、2000 HEAT