熱いハイチのリズム

「なんといっても<サムシングワイルド>!」の映画フリーク以外にも、アカデミーの作品賞・監督賞・主演女優賞・主演男優賞を総なめにした映画<羊たちの沈黙>で広く知られることになる、監督ジョナサン・デミが、ハイチのポピュラー音楽を知らない人々にそれを垣間見させる初のアルバム<Konbit >を編集したのは1989年のことだ。
1987年にジョナサン・デミの一行がドキュメンタリー映画の製作でハイチに飛んだのは、音楽、詩、演劇、アート、ラジオ、ユーモアに富んだ率直な会話を通じて、よりよい未来の達成のために自己表現するハイチ人に公開討論の場を提供する意図があってのことだった。
1986年、29年間続いた血塗られた残酷なデュヴァリエ主義者の独裁政権が終わり、ハイチ人にとって87年の選挙は「民主主義」の絶好の機会だった。ベビー・ドク・デュヴァリエはいなくても、いまだに支配が続くデュヴァリエ主義者に国が縛られているのが現状。もうそろそろ民主的な選挙が実現できてもいい頃だったが、多くのハイチ人がこれまで同様、そんな選挙には手が届かないと感じている。
ドキュメンタリー撮影中にジョナサン・デミの一行は、もっとまともな人生に向けて放浪の旅に出る、才能ある素晴らしい伝達者に遭遇する。アルバム<Konbit >にあるバンド、SAMBA YO を率いるミュージシャン&ヴードゥー活動家のABOUDJA やハイチのボブ・マーリーと呼ばれる勇気あるシンガー&ソングライター、MANNO CHARLEMAGNE がその人たちだ。デミらは、政権に反対する激しい歌のせいで軍と警察に追われるMANNO を先回りして裏道を旅しながら撮影した。ハイチでもご多分に漏れず、こういう伝道者が支払わされる代償はたいてい、鞭打ち、拷問、投獄、強制国外追放、死という体験のすべてに及ぶ。2人が今も元気に活動しているのは幸運なことだった。
痛ましいことに、子供たちの教育施設が欠如しているせいで文盲率の高い国では、たいてい、音楽を通して表現する話し言葉が読み書きのできない人々の文学作品になる。「読み書きができない」を「頭が悪い」と混同しないように。これはハイチを訪れて発見するたくさんの真実のひとつだ。
アルバム<Konbit >の可能性に興奮したネヴィル・ブラザーズのシリルとチャールズを連れて再びハイチに飛び、人里離れた山のコミュニティから西半球で一番バラバラの集合であり不毛のスラムの中心のシテ・ソレイユまで、極めて多彩な人々を撮影した4月2日、ハイチ軍の反抗的な部隊が軍の指導部に対してクーデターを企て、また国をひっくり返した。ギョッとする剣呑と根深い争い。絶え間ない恐怖という情況での生活が如実になる、苦しめられたホームランドの混乱の中にほとんどのハイチ人を残したまま、アメリカ人の一行は3日後には自由に国を離れることができた。
1804年の勇気あるフランス植民地主義の打倒以来、ハイチはずっと国際社会からのけ者扱いされてきた。この黒人共和国はヨーロッパとアメリカの政権から罵倒され、無視される。そして1915年から34年までの19年間をアメリカ軍によって占領された。
今日、他のカリブとアフリカ諸国の音楽が国境を越えて世界の隅々まで行き渡り、親しまれているというのに、ハイチ音楽はまだほとんど知られないままだ。アルバム<Konbit >はまた、フランス語と様々な西アフリカ語の原型に関連ありとされるハイチ特有の言語、ハイチ・クリオール語を堪能する最初のアルバムとも言える。
因みに「Konbit 」とは、伝説となってるハイチの言葉で、「すべての人の利益のために共に働くという精神で土を耕す協力的な一団」を意味する。

●Konbit:A &M Records 1989 (ネヴィルブラザーズのレーベル A&M がシリルらの意向を受けて資金の後押しとプロジェクト本部の提供に同意。参加アーティストのロイヤリティはハイチに作る水道設備費用に充てられる)
★ブードゥーの精神性をカリブスタイルのダンスミュージックに活かす、ブークマン・エクスペリエンスが1995年4月に来日した。ボブ・マーリーを彷彿させるリーダーのロロ・ボーブランは、「資本主義でも共産主義でもないスピリチュアルなものを身につけなければ」とその信条を伝える。
▲TAMA- 17 掲載、1995 SPRING

『君が見たり聞いたりしたことの半分は信じるな。だが、君が臭いを嗅ぎつけて感づいたことはどれもみな信じられる。ハイチはこれを実践するのに適した場所だ』
ハイチ1993-- 1994

ハイチのクリスマスツリーに飾られたサンタクロースの人形には針が刺さってるって?
石油の禁輸措置に耐える、森林を切り払われた国では、長いソックスの中に棒きれや石炭があればまし。それでもノーフォーク・マツの枝から作るクリスマスツリーがあり、ラジオからは有名なクリスマスキャロルの歌をカヴァーするレゲエ、カリプソ、メレンゲが聞こえる。針の跡がついた人形は国のどこにも見当たらなかったけれど。
呪いをかける針人形はハイチやブードゥーとは関係ない。それは怪しげで不作法なフランス人が新世界にもたらしたヨーロッパの迷信のひとつだ。ハイチにはそのように手の込んだ悪の装飾品は必要ない。しっかりした不正の常套手段が難なく利用できる。
シテ・ソレイユが惨めさを表す陳腐な洒落になるほど、アメリカのメディアはなにか恐ろしいことがハイチで持ち上がるたびに、亡命したジャンベルトラン・アリスティド大統領の熱狂の中心であるこのポルトープランス・ベイの沼地に建てられた広大なシャンティタウンの様子に触れる。ここではニュースがいつもあぶれ者と説明する15万人が貧困のなかで暮らす。アメリカのハイチ人ボートピープルの扱いを考慮に入れれば、ラテン語で「投げ捨てる」を意味する言葉から派生した決まり文句の「あぶれ者」はあまりにも適切すぎる。そして皮肉と指摘されるシテ・ソレイユ(太陽の街)の名は、皮肉などではなかった。60年代にベビー・ドクの父、パパ・ドク・デュヴァリエが妻の名を取ってシテ・シモーヌと名付けたスラムの名は、ベビー・ドク・デュヴァリエ放逐後にベビー・ドク崩壊の助けとなったカソリックの名誉のラジオ局、「ソレイユ」に変えられたのだ。
シテ・ソレイユは世界で最低のスラムというのではない。ある意味でワシントンの3分の2よりましだと言える。夜中の3時に歩いてもなんてことはなかった。またある面ではそうと信じ込ませることのできるCNN のヴィデオテープよりずっと恐ろしい。TV の「臭さ」は嗅ぎ取ることができない。
シテ・ソレイユはまるで何万という子供が同じ空き地に砦を築いてるようなものだ。つまり驚くほどひどいところではあるが、驚くほど愉快で、騒々しくて、自由なところでもあるというわけだ。ハイチ人はその惨めさに気づかぬほど単純でも愉快でもなかったが、浮かぬ顔をしたり悲劇を毒づくのはハイチの流儀ではなかった。
シテ・ソレイユはとても燃えやすい。おまけにそこに住むポルトープランスのタブタブ(日本の軽トラで作られたミニバス)の運転手が家に配給品のガソリンを備蓄するせいでなおさらだ。スラム全体が全焼してもおかしくないが、ハイチではまともに機能しているものがなかった。
電話は不通。電気はときたま気まぐれ状態。水道は突拍子もなかったのでほとんどが公共の井戸か、給水タンクを利用する。ぬるぬるしたコンクリートの給水タンクが使えるのは午後8時から朝5時まで。夜、灯りのない通りを女性や少女が自分より重いポリバケツを頭上でバランスを取りながら運んでいく。
街灯のない通りには女性の尻の高さにまでゴミが堆積している。島の通りは巨大な使い捨ての腐敗したクズでできた長い土手だ。1993年6月には首都で毎日出る1600トンのゴミを収集する12台の清掃車があった。地元の住人が時折ゴミを燃やそうとするが、パロディ版の生物分解性VS 焼却の争いになる。ハイチの風土ではすべてが生物分解性で熱帯特有の腐敗分泌物が火事を防止する。ゴミの堆積はちょうど流れ出る作り話のように大きく膨張したままそこに残った。
目下、稼働している清掃車は2台だけ。1台がダウンタウンに止まっていて清掃員がシャベルを持って後ろに立っていた。先頭の清掃員がシャベルで汚物をすくうと次の清掃員の足下にそれを落とす。次の清掃員がその次の清掃員の足下に落とす。これを延々と続けるだけで清掃車にゴミはなかった。こういうわけで、首都ポルトープランスの道路にはほんとに広大な穴がたくさんある。次から次へ埋めることで、衛生設備ではないにしろ少なくともある種の整地作りをしたことにはなる。ハイチの通りと道路がこんなにも悪いのはそんな風にして作られてるせいに違いない。
クルマで走るのは、走る道路と同じくらいにひどかった。ハイチで機能しないものは他にブレーキライト、方向指示灯、手の合図、ハンドルを握る人の常識が挙げられる。どんな乗物でも運転は全速力。回収や人の乗り降りはどれもみな大急ぎだ。ほとんど飛び跳ねてる状態だから、無料マッサージのようだった。
反アリスティドであろうとなかろうと、ハイチ人は石油禁輸の経済制裁によるこの大々的な機能不全を非難する。そのせいばかりとは言えないまでも、ウォーターフロントは収拾のつかない状態だ。港は濡れたゴミでぬかっており、そのすべてがすり減っていた。そんな中にはさまれて、人々はいつでも喜んで人を迎え入れ、神経をすり減らし、痩せてはいたが、事情が許す限り苦心して身支度を整え、洗濯もしていた。
街の中心にあって唯一きれいなのは、主のいない大統領宮殿(まだアリスティドはアメリカに亡命中)。手入れの行き届いた広々とした敷地の中央にある月並みな古典的装飾様式の建物だ。
人がどこでガソリンを手に入れているのか見当もつかないが、交通渋滞もあった。銃を持った兵隊が給油係の給油所に並ぶクルマの数は200台以上にもなる。1994年になってハイチ人はブラックマーケットのガソリン1ガロンに1100ドル支払うことになる。大雑把だが、満タンにするにはアメリカ人がクルマ一台買うより高くつく計算になる。
ハイチに対する禁輸措置は様々な人道的疑問と確固たる事実に基づく疑問を呈示する。すでに悪化してるものをもっと悪化させていいものか?ハイチはなにもかもが不足してうまくいってないのだから、役に立つものを止めるのはうまくない。多分、アメリカ国務省の品行方正な方々はハイチを丸ごと面倒みようというのだろうが、彼らの論法を理解するのは難しい。
ハイチの犯罪は警察と軍隊に任されている。軍の本部は大統領宮殿から対角線上に見える質素なバルコニー付の2階屋で、まるで植民地のように見える。ハイチ軍は自分の国以外はどこも占領していないが、一種の植民地占領軍みたいなものだから、それは理に適っている。
ハイチ共和国名誉領事のカナダ人、リン・ギャリソンは軍は誤解されており、アリスティッドは共産党の気違いだと確信する。この取るに足らない司祭のことを、政府を変えたいがためにハイチ人が抱く常識外れの期待の徴候と呼ぶギャリソンは、デュヴァリエ主義者への恐ろしい仕返しに追従する者とアリスティッドを非難した。これにはうなずける。昨年、ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックスがアリスティッドの右翼政策には言及せずに、規模雄大な彼についての記事を掲載した。そこでデュヴァリエ主義者を殺害するアリスティッドの選挙人について述べていた。「遺体をさらに虐待するために太陽の下に曝し、切り落とした頭を戦利品のように棒の先に突き刺して通りを練り歩くこともあった」
ギャリソンは軍のことを、「なんでもこなす国の構成分子」と呼ぶ。それはいつも第三世界の制服を着た暴れん坊に与えられる言い訳だが、構うことはない。独立以来、ハイチはドミニク共和国以外の国とは戦争らしい戦争をしてきていないし、1855年からはどこともまったく戦っていないのだから。軍ではなく、ハイチの農民が戦ったアメリカの占領という戦争を数に入れないでの話ではあるが。
最も不運な運命を背負わされた島と続くものの、かつてハイチは「世界で最も美しい島のひとつ」と呼ばれ、「ルソーの理想的な自然の姿の夢に影響を与えるほどの自然美にあふれる国」と記述された。今のハイチはそうではない。丘陵地帯の森林伐採はそこが砂丘だったかのような完璧さで行われ、残った緑は景色の隙間と割れ目に呑み込まれる。ハイチの畑には出没するゾンビもいなければ農夫もいない。耕作できるような土地が不足していることもあり、ハイチでは藪の一区画が農場だった。タピオカの原料となるカッサヴァ、トウモロコシ、スウィートポテト、ひよこ豆、またはコーン畑のあるニワトリがはびこる雑草の藪に見えるバナナの木。兵隊がブタを盗むというときに余剰副産物など作るやつはいない。それに農夫のほとんどが自分の土地を所有していないか、はっきりとした権利証明書を持たない。とにかく、正当な権利は読み書きのできる町長か、軍の士官、行政の責任者の手の内にある。それに証書はフランス語のはずだ。
シテ・ソレイユのヴードゥー寺院は、余裕のない馬小屋から着想を得たと思えるようなコンクリートの長屋に比べ、広々としていて、壁に聖人の絵が並ぶ。アフリカのパンテオンから伝わったとはいえ、聖人はカソリックの聖人と結びつけられる。部屋の中央には聖人の霊がヴードゥー寺院に降りる際の階段、ポトミタンがあり、ヴードゥーの儀式と踊りのほとんどがそこで行われる。
このヴードゥー寺院のメンバーは、ハイチのヴードゥー集団のひとつであるビザンゴの信者だ。彼らは秘密社会と呼ばれるが、秘密と言ってもフリーメーソンがやるような秘密の儀式とパスワードがあるだけのこと。フリーメーソンのことを思えば、取り立てて名指しして呼ぶようなものではない。そこのフリーメーソンを思わせる司祭は、思慮深い小柄なビジネスマンで、ヴォランティア活動をせっせとするようなタイプだった。彼の肩書きは、外国風の大統領ではない、プレジデントだ。
ヴードゥーは混合主義の宗教だ。包括と折り合いという極めて多面的な苦心のすべてが神聖なものとしてここに大切に保存されている。 それこそ何百という神を持つアフリカ社会出身の人々が大勢捕らえられ、おまけに別の惑星かと思えるような所に連れてこられた。そこでウジ虫みたいな連中から最悪の侮辱にさらされる。青白い専制君主どもは自分たちの神が人はみな平等と説いていると主張する。この神や神の子供、神の母は、無限の慈悲の心と愛情に満ち満ちていたが、いざ改宗しないとなると、奴隷たちの死体をかまどで燃やした。
アフリカの言葉で「たわごと」がなんであれ、ハイチの奴隷たちはその言葉を常に口にしていなければならない。なのに、この奴隷たちはキリスト教を学び、彼ら独自の様々な信条も学んだ。これならいいだろうというのでクリオール語を創り出したように、極めて抽象的でつまらない宗教から納得できる別の宗教を創り出した。
ヴードゥーの儀式は知らぬ間に始まる。儀式をつかさどる議長がスパンコールで飾ったサルサバンドのシャツで入場する。コンガの演奏が始まり、議長の会話調で始まる祈りが続く。そして踊りが始まると、最初は男性が、続いて女性が、とりとめもなくポトミタンを旋回した。儀式が形をなすまでに1時間半を要した。夜が更けると踊りはより複雑な熟練を積んだものへと発展していく。 突然、女性たちが祭壇室にダッシュしてナイフを振りかざして出てくる。ドラムが早まる。歌の調子が高まる。遠心力で踊り手たちが壁にブチあたってもおかしくないほどスピードが増す。聖人が乗り移った女性がナイフで空を切りながら疾走する。半ダースほどの女性がダルウィーシュ状態に陥り(激しい踊りや祈祷で法悦状態になること)、天国に向かってうめいていた。地面に倒れてブタのように鼻を鳴らす人。痙攣してもだえる人。手や脚のコントロールが効かない人。数時間のあいだ踊りは盛り上がり、やがて歓喜が訪れて、消える。
喝采と呪文が終わると、礼拝堂のドアが開き放たれて十字架と棺が運び出される。威嚇と対決の踊りの後に、棺がシテ・ソレイユの通りを駆けめぐって、儀式は締めくくられる。棺が元に戻ると参加者全員が互いに抱き合う。夜中の2時とはいえ、これからがおしゃべりの時間だった。そこではみんなが意見を言い、みんなが相手の話に耳を傾ける。ヴードゥー社会は社交クラブであると共に、互助会であり、地域の共同銀行でもあった。
中立の立場をとる地元のガイドが、「ヴードゥー以外にハイチで保護するものはない」と言った。

▲参考資料:ROLLING STONE April 21 1994 「HAITI by P.J.O'ROURKE 」からの抜粋
●TAMA- 17 掲載、1995 SPRING