異常な状況に投げ込まれた正常な人々

戦争は終わり平和が。でも大量のコソヴォ難民にとり問題は発端にすぎない。
多くのメディアが連日、家を追われ家族を虐殺された気の毒な難民の姿を世界中に流した。でもこんな話は聞かなかった。もし同世代の若者が共感を覚えるようなアングルから報道してくれていたなら、若者だってあの中には自分と同じ音楽を聴き、クラブで楽しくやる、流行に敏感な子たちがいることに気づき、もっとせっぱ詰まった気持ちでニュースに耳を傾けていただろうに。  

チュータ・レステリカが最初にニュースを聞いたとき信じられなかった。彼女は誰にも言わずにスコピアのバーでウオッカをぐいとつかむとよろよろと立ち上がった。朝早くに友達がマケドニアから避難させる難民リストの頭にチュータの名前を見た気がすると電話をかけてきた。もしこれが事実なら、彼女は時間の問題でまず間違いなくイギリスに飛び立つことができる。「夢が現実になるなんて」  
20歳のチュータはコソヴォのプリシュティナにいた頃、週末にはバスケットやテニスをやり酒を飲みジョイント(マリファナタバコ)をこっそり吸って騒いだ。
プリシュティナの気の利いたバーやクラブはヨーロッパの営業時間で、よく彼女は朝の6時まで遊んだものだ。
マケドニアのスコピアでも毎晩バーに出かけるが、ここでは「忘れるため」に出かける。その日は月曜日なのに主にプリシュティナからの難民が大勢丸石を敷いた道路にあふれ、踊ったり飲んだり、大気は大いに充満してそれはもう立派なナイトライフの徴候だった。  
彼女の友達は正しくて、3週間後チュータはイギリスに飛びカムデンのショッピング街を目指して歩いていた。持ち歩く「地下鉄利用の仕方」という小冊子を除けば彼女をその他の人々から見分けるものは何もない。他の難民80人とシェアーする新しい家は中心地にある。彼女は自分の部屋を与えられ週40ポンドもらうがこれまでのようには外出しない 。
戦争の間、プリシュティナのチュータの家はセルビア人に乗っ取られセルビア警察本部になった。少なくとも燃やされることは免れる。マケドニアに逃れたときチュータは父の友人で仲間のアルバニア系住民をかくまうため門戸を開いた大勢のうちのひとりに歓迎される。 しかしたった2百万人の国だ、26万ものアルバニア人の突然の殺到は彼らの国の民族構成を脅すポーズになる。マケドニア人口の三割強がアルバニア人で少数だがセルビア人もいればトルコ人もいる。この地では戦争はこのような民族別人口の不均衡から始まった。
チュータは自分がこの街では望まれていないこと、ちらっと見るだけでマケドニア人、セルビア人、アルバニア人を見分ける異常な能力が全員にあることが明白になると立入禁止区域をとっさに見抜く必要があった。メディアがただひたすらキャンプにいる難民に焦点を合わせている間にマケドニアの全難民人口の半数以上がそこを抜け出して普通のアルバニア系住民の家に住んだ。この総勢15万の難民が小さな二つのアルバニア人地区に詰め込まれる。 チュータは二ヶ月間11人と小さな家をシェアーした。そんなわけで彼女はどうしてもロンドンに7年住むボーイフレンドと合流したかった。  

さて戦争は終わり、1万のコソヴォ住民(三分の二がアルバニア人)が死ぬ。
90%のアルバニア系住民が戻りセルビア人が出ていくとき、7件の虐殺行為で起訴されるミロシェヴィッチ大統領はコソヴォを失うばかりか自分の民族の浄化までも成し遂げる。こんなに悲惨でなければ大笑いするところだ。
「私たちが出ていくときセルビア人は笑いながら突っ立って見ていた」とチュータ。今、同じことが彼らの身に起きている。でも平和を定着させるのは戦争に勝つより難しい。その地域の早まった平和協定を具体的に示すように短期的に問題に決着をつけようと周囲の民族グループを一掃するのは別の争いへの道を開くだけだ。

NATO軍がユーゴスラヴィアに最初の爆弾を落としたとき、トニー・デュラと妹のメリナはシャンパンのボトルを開けた。民族間の怨念に火を付けたミロシェヴィッチの命運も時間の問題と思ったから間近に迫る解放にグラスを高く掲げたのだ。
チュータは8日間でプリシュティナを離れたのにトニーとメリナは二ヶ月そこに留まり戦闘機のブーンブンと爆弾の音に奇妙な安堵感を見いだしていた。大学の閉鎖と共にバーやクラブに繰り出すのはやめにしたが、食料を買いに出るという冒険を余儀なくされるときは、そのほうが安全だったから二人は夫婦のふりをした。
電気がきてるときはBBC、ABC、スカイニュースが外の世界につながるライフラインになる。5回セルビア人警官が二人に襲いかかったがそのたびに流暢なセルビア語を話すトニーがうまく勇敢に抵抗した。その後、真夜中に彼らが戻ってきてアパートのドアを乱打したときもうこれまでと悟ったトニーは、メリナを起こし、小さなバッグに衣類を詰めてマケドニアに脱出した。楽天家のトニーは離れてる間に仕事が見つかる場合に備えてスーツを持つのを忘れなかった。  
二人の新しい家はStenkovec1と呼ばれるキャンプのほこりっぽい滑走路に立つ白テントだ。そこの3万の全隣人が住み心地悪い肉薄した空間で暮らす。
それはさておきキャンプは十分に機能可能なヴィレッジのように稼働した。テントは掃除が行き届き、靴は入る前に脱ぐ、ブランケットは毎日叩いて埃を落とす。小さな店の列ではキャンプ地に欠かせないものを売り、ビン回収男がゴミ屑を一掃した。子供たちはバスケットで遊び移動式トイレには空気清浄剤がある。
でもここはトニー・ブレアがヒーローと見なされるヴィレッジだ。10歳の子がオルブライトが、クックが、クリントンがと政治について話し合い、救援機関の頭文字 MSF/MDM/UNHCR/CRS が新しい日常用語の一部になる。そしてそこは誰も自由に出ていけないヴィレッジでもあった。入口は重々しく武装した戦闘服姿のごっつい男たちが見張り、周辺部は情け容赦ないマケドニアの警官がパトロールする。

スコピアの豪華なコンチネンタルホテルに仮住まいするジャーナリストの大群によれば、もう難民はニュースにならない。レイプ、大量虐殺、破壊、手足の切断といったホラー話はすべて出尽くした。難民雑役にうんざりの彼らはバーに群がるか、にわか景気に沸くオールドタウンで贅沢に騒ぐかで、タブロイド紙は彼らの注意をウインブルドンとかロイヤルウエディングとかもっと緊急の話題に向けていた。
メディアがそのホラー話をかき集めるのにあわただしく動き回っているとき、多数のメディアが野営して定住してと単純に毎日の暮らしに合わせていく難民の工夫に富んだやりくり上手ぶりと順応性、生き残りにかけての彼らの天性について触れるのを忘れた。  

一方、トニーとメリナはキャンプに着いたとき全員コソヴォ南部の町Gjakova 出身の学友と出会い、堅く団結した代理家族として一緒のテントで共同生活する。
爆撃が始まったとき故郷から離れていたので家族が生きてるのか死んでるのか全くわからない子もいた。彼らは新入りから故郷の町が軍隊が入って以来コソヴォで徹底的に燃やされた町のひとつと知らされる。
アルタがホイットニー・ヒューストンの「It`s not right」「but it`s okey」を繰り返し歌う。こんな目にあってもまだ彼らには揺るぎない楽観感覚がある。トニーのスーツはテントの隅で皺になってるとはいえ、彼は年内中には大学に戻り逃した試験を受けようと思っている。物事の大きな体系のなかではStenkovec1での制限は払うべき小さな犠牲と彼らは見なす。
コソヴォの少数民族アルバニア人の人権虐待は1990年から続いている。それはトニーの人生の半分だ。  

バルカン特有の歓待に甘えて彼らのテントで三日間寝起きしてみると、けしからんと言われそうだが、それは目を見張るくらいおもしろい体験だった。
キャンプではアルコールは禁止だが常に物事には迂回路があるもの。警察署の向かいの店まで行くと直ちに冷えたビールが出てきた。メリナがここで救援活動している人にそっと連れだされてスコピアで自由な12時間を過ごしたことを打ち明ける。クラブで一晩中踊った後こっそり朝帰りすると仲間のアルベニが消えていた。彼は新しいガールフレンドと「出かけて」いた。一般のパトロールの仕事は厳格な午後11時の夜間外出禁止令後ちょっとしたプライバシー求めてさまよう好色なカップルに対処することだ。彼らが抜け出すのはたいていそのため。やりくり上手な難民は市場に適所を見つけ、親密なひとときを求めるカップルに1時間5マルクでテントを貸し出す。
ビールのせいで話題があちこちに飛ぶ。私たちは彼らが逃した本や音楽のことを話した。ACミランのマルディニはベッカムよりいい男か?「恋に落ちたシェイクスピア」は「エリザベス」ほどいい映画か?チャールズはカミラと結婚するか?
くだらないおしゃべりだがこの種のおしゃべりはEUのどこでも起こり、これが人を立ち直らせる。  

いつ帰れるのか明確でないせいで、ここでは仕事は金より貴重だった。トニーとその仲間は仕事を見つける天才だ、トニーはデンマーク大使館の通訳、他にイスラエル社交クラブの通訳もいる。
子供たちは朝9時からレッスンがあり午後は遊びが加わって日が沈むとディスコが登場する。入念に化粧した女の子たちが手持ちのドレスに着替え、肉体という肉体がリッキー・マーティンのサウンドに一斉にときめく。
13歳のムスタフもそこにいた。セルビア人が彼の叔父さんを3階の家の窓から投げ飛ばしたことを、彼がギャーギャー騒いだせいで家族が銃で脅され町から追い立てられたことをしばらくは忘れられる。
でも潜在するひどいトラウマは決してうわべだけのものでない。それにこれは事態をあきらめて受け入れるのに何年もかかる戦争だ。彼らは毎日百人以上の人間が激しく傷つけられるのを見てきた。
家族全員を失い、大虐殺を人がはらわたを引き抜かれるのを目撃してきた19歳の男性はフラッシュバックに苦しんだあげくついに肉体が機能を停止した。文字通りのショック死だ。
それはさておき、キャンプ内では戦前のコソヴォでは考えられないようなことが起きていた。妻を殴る蹴るの家庭内暴力だ。援助機関MSFで働くセラピストは「アイデンティティ、人生の役割、家庭と男性にとってのすべてを失い、今や全世界がテントの中という彼らはまさに爆発して妻や愛する者たちを傷つける精神異常を発現している」と説明する。
もっと自暴自棄なのが売春婦だ。なかには夫に強要された女性もいる。両親が撃たれるのを目撃し、逃げる途中で捕まってレイプされた心身障害を患う16歳の少女にとり売春ははけ口であり逃げ道だった。  

これらの人々に比べるとチュータやトニーはラッキーだ。相変わらずキャンプにいて見通しの立たないトニーだが平和協定には冷笑的、「アルバニア人が帰るのを誰も望まないわけだから勝ってもお笑い草だ、セルビア人を一掃しても生きるところがない」

●参考資料:i-D Aug.1999 NEWSWEEK 6/30 1999
●TAMA- 25 掲載、1999 chill