ロンドンリポート
CHIHARU WATABE

ポストディヴァインについて思うこと:
「リッキー痩せちゃだめよ」とリッキー・レイクの写真を見るたび思うのだが、ここロンドンではあまりハリウッド系の情報は歓迎されないのかリッキー・レイクを知る人は少ない。情報が多く入る日本でもかなりマニアなものが入っていると思うがアメリカでは結構な知名度のはず。
私は今月のインタヴュー誌のパーティ・ページでお見受けしたのと、スウェーデンで見たアメリカ系衛星放送のゴシップ番組でも「リッキー痩せたわねー」「ええ、最近は仕事も変わってきたのよ」などと言って髪をなびかせる彼女を見た。
ディヴァインの遺作となった映画「ヘアスプレー」の太った娘役が今やTV のパーソナリティもやる「できる女タイプ」に様変わりしてしまった。あんなに太っててもあんなに踊りのうまかった彼女が、ディヴァインの系譜を継げる貴重な財産が、今やただの美人とは残念。
そしてジョン・ウオーターズの新作「シリアル・ママ」がロンドンにやってきて私は再び太ってる(とはいえかなり痩せてはいるのだが)リッキー・レイクを目にすることができ目頭が熱くなる思いだった。
私は会う人会う人にこの映画を見るよう勧めている。 ボルチモアの理想的な主婦が愛する家族の「敵」をあっさり殺していく前半と、逮捕されていかにして無罪を勝ち取るかという後半の法廷劇との二部構成。ストーリーはともかくその全体に流れるジョン・ウオーターズ独特の下品上品一体型ユーモアで思い切り笑ってもらいたい。
ウオーターズ・ファンの多くが「クライベイビー」では我慢できずに今回こそはとディヴァインの後継者を期待した作品だっただけにキャサリン・ターナーの配役は逆に度肝を抜いた。母親もさることながらバカ丸出しの息子役マシュー・リラード、情けない顔の父親役サム・ウオーターストン、そしてまだ太っている頃のリッキー・レイク、そのマンガに描いたようにできあがった家族の見事な配役!「トゥルー・ストーリー」のデイヴィッド・バーンと言いボルチモアの地は侮れないのだった。

ロンドンのICA (総合美術施設)で4月に一回上映されて人気のせいで7月に再上映されている「GRIEF 」は日本では上映されそうもないアメリカのインディ映画だが、これに出ているジャッキー・ビートは大デブ・トランスベスタイト=ディヴァインの後継者と言われている。
映画は「愛の法廷」というTV 番組を持ってる弱小プロダクション内でプロデューサーのジャッキー・ビートが使用済みコンドームを見つけることから始まる。彼女を含まない3人の男を絡んで愛の悲喜劇が起こるわけだが、彼女は事を荒立てるいわば起爆剤のような役割。全体的に見ればあくの強い役者を揃えてのドタバタ劇だから「ムー」や「ムー一族」の伊東四郎をイメージしてもらえばいい。大きさで言えば「寺内貫太郎一家」の小林亜星だったが。
ジャッキー・ビートは明らかにディヴァインより大きくて女装もうまい。ただあまりにもイメージとして固定化された後のデブのトランスベスタイトはいくらでも生産可能だし、私たちがそのイメージに慣れきっていることもあって90年代に受けるものは少なくとも70年代にディヴァインが私たちにもたらした衝撃と同じではなかった。
70年代のディヴァインはフリークショーから飛び出してきたような形と動きをした非日常の象徴であり、それが特に人々の注目を浴びたのはそれまでのアンダーグラウンド文化の場が夜もしくは室内であった常識を覆してカラフルな衣装で太陽の下に飛び出した彼の極めてポジティヴな態度に拠った。
ディヴァインがメディアに登場し始めた70年代初頭、アメリカではすでに一部同性愛を正当化する法律ができていたが73年に精神科協会が同性愛を精神障害から外したときでさえ「性的対象の混乱」と名前を変えただけであった。
女装も同性愛を連想させるものとして同等の扱いであったことを考えると(それは現在もほとんど変わっていない)ディヴァインの登場は相当のリスクを負っていたはずであるし、それをまったく気に掛けない態度がかえってカルトステイタスを確立させたと容易に想像できる。
いまだに太った若い女性=タブーという図式がまかり通っているだけにそのリスクを背負い、太っていても愛らしく踊りもうまい魅力的な存在という経歴の持ち主リッキー・レイクには太っていてもらいたかった。
奇しくも「シリアル・ママ」「GRIEF 」ともに法廷劇を盛り込んだ内容であったが、それは単なる偶然ではなく、法廷で見いだされる一般人の生活に潜む奇妙さはいかにも90年代らしいカルトの所在だろう。
私もいまだにディヴァインの死を悲しむひとりだが、ポスト・ディヴァインを期待するフィールドを変えた方がいいのかもしれないと思わせる2作品であった。

ベニーズ・ヴィデオ:
ベニーは金持ちの子。昼もブラインドを降ろしたベッドルームにはヴィデオのキットが並ぶ。
窓の外を写すモニターは常にオンになっている。レンタルヴィデオと自分で撮ったヴィデオを交互に見ているベニーは親とは挨拶程度にしか会話しない。学校には普通に行き友達とも遊ぶ。
ヴィデオ屋で見つけた少女を家に招き二人で食事して二人でヴィデオを見る。
親はしばらく帰って来ない。ヴィデオに写ってる屠殺用の銃を少女に見せて少女にけしかけられたベニーは銃の引き金を引いてしまう。 少女は死ぬ。
一部始終はヴィデオに撮られている。ベニーはそのヴィデオを両親に見せる。
両親は死体を処理することにしてその日までベニーと母親はエジプトへ旅行に出掛ける。
旅行から帰ってきたベニーは両親の会話を収めたヴィデオを警察に見せる。そして両親は逮捕される。

金持ちの十代の考えることは大概ものすごく突き進んでいる。体力もあるし仕事で忙しい大人より情報量が多く頭もいい。その上、金もあったら人間の欲しいものほとんどを制覇したと言ってよく、恐るべき存在の、宇宙人である。
ベニーにとって ヴィデオは自分の姿を確認する鏡や時間を確認する時計や自己を確認するための他人と同じに生活を確認する道具である。しかもずっと性能がよく、編集・再生・巻き戻し・静止・早送りをすることにより生活は思いの通り。
それと同時に写真やフィルムと違うヴィデオの特性、観客を尋常でない平坦さに誘うのっぺりとした記録装置の役割を避けられない。
何が起こってもヴィデオの中ではそのドラマ性を十分に発揮できずに何もかもをただ飲み込んでしまう。 ベニーが愛してるわけでもないのにそこから離れられないヴィデオのモニターに写し出される血は日焼け止めクリームかなにかと同じに見える。日常こういった視覚に慣らされつつある私たちにもこの恐怖の可能性がある。

▲ベニーズ・ヴィデオ:ミヒャエル・ヘネケ(ドイツ)
●CHIHARU WATABE :現在ロンドンに留学しながらフリーランスでライター・通訳・コーディネイターの仕事をする。彼女がこれまで一番おもしろいと感じたニュースのネタは94年1月キッチンテーブルで発見されたイギリスの国会議員の全裸死体。女物のストッキングをはき、頭にはビニール袋、首にはコードが巻かれていた。死因は自慰行為の末の心臓発作とか。
●TAMA- 16 掲載、1994年 FALL