Riding The Mexican Wave

1994年の大統領選の最中、僕はメキシコ人を困らせようとメキシコ南東部チヤパス州トゥストラを旅していた。飛行機には、黒ずんだやたらでかい靴をはく、メイクなしの女性の一行が乗り合わせていた。彼女たちもまたメキシコ人を困らせていた。アメリカの人権団体や労働組合、外交政策のシンクタンク、民主・共和の両党から資金提供された民主主義を後押しする機関から派遣された国際選挙監視員だった。

心配するな。1929年以降、どの選挙でもひとつの政党が独占してきたメキシコは国民投票に干渉するおせっかい屋を必要としている。僕たちが自治の産婆役を務めなければならない。普通の選挙権という"おまる"に座るよう、よちよち歩きの自由をしつける必要がある。なぜって、メキシコは新生国家だからだ。でも、僕たちの祖先が森で生活していたBC 1100 年に、メキシコは華麗な古代インディオのオルメック文明発祥の地だった。そうね、メキシコは低開発の国なんだ。でも、年間国内総生産高が先進国のスウェーデンより高く、経済はわが国アメリカより速いスピードで成長している。おいおい、いい加減にしてくれ。メキシコは第三世界だ。英語にはなまりがあるだろ、それにいまだにタバコを吸ってるじゃないか。

メキシコを支配する与党 PRI は名うてのワルだ。まさにその名の制度的革命党というのがむかつくリスト入りだ。PRI は、労働組合、マスメディア、メキシコビジネスの大部分を支配する。直接でなければ賄賂や脅迫でもって直ちに抑え込む。だが、PRI に対する国民の怒りが年々増していた。メキシコ国民は開かれた政府、寛大な政府を迫っている。PRI は今回の選挙で、実はほとんどPRI と区別のつかない保守的でビジネスびいきのPAN 国民行動党の候補者と張り合っていた。おまけにこれまたほとんどPRI と区別のつかない寛大な社会主義的傾向の中道左派、PRD 民主革命党の候補者とも張り合っていた。そしてこの3者間の騒々しい言い争いの最中にPRI の大統領候補コロシオが暗殺される。これは民主主義に向かうメキシコ人の姿勢がどんなに遅れているか示すことになる。近代国家では大統領候補を撃ったりしないと誰もが承知している。選ばれるまで待つものだ。

メキシコの法の執行官らは殺害の調査に<JFK >を撮った映画監督オリヴァー・ストーンでも雇ってるみたいだった。たとえ射殺の瞬間を捕らえたヴィデオテープがあり、ガンマンが逮捕されて、罪を告白していようが、どういうわけかコロシオ殺害は未解決のままだった。

ことをさらにおもしろくしようと、NAFTA (北米自由貿易協定)が発効された1月1日にスキーマスクをかぶった農民ゲリラの一団がジャングルから突然現れてチアパス州にある4つの町を占拠した。そして全世界に、「スキーマスクをいったいどこで手に入れた?一番近いゲレンデだって2千マイルは離れているのに。それに、あんな毛糸のマスクをつけて痒くないのか?外は32度の暑さだ」と騒がせた。そう、僕たち、善意だけの社会改良家がメキシコに到着したときには、状況が緊迫しており、ドラマチックだった。着いてからは何事もない。

キャンペーンは穏やかだった。投票もほぼスムーズに運んだ。とにもかくにも投票の水増しや不正はなかったし、政府の対応も不足ないものに思えた。軍が山に追い立てたゲリラたちもそこに引っ込んだままだった。そして、メキシコ国民はPRI を再選した。PRI は腐敗している政党だ。愚かで、権力にしがみつく、古くさい反民主的政党だ。なのにメキシコ人が政権に戻した。でかくて黒ずんだ靴をはく真面目な僕たち全員が現にこうして政治の自由のことで深く心配しているというのに、メキシコ人はこんなことをしてくれる。

何事もなくても、本物のリポーターは決して仕事を中断しないものだ。インタヴューを受けた大部分の人々が平和を口にして、スキーマスクをかぶった連中の蜂起を引き合いに出す。蜂起はトゥストラから50キロ離れた所で始まった。反乱者たちは自らのことをメキシコ革命のヒーロー、エミリアーノ・サパタにちなんでサパティスタと呼ぶ。サパタは土地を再分配するのがよいことだと信じ、裕福な地主の土地を奥行き6フィートの小区画にする考えだった。革命は1911年から1920年まで続き、15人にひとりのメキシコ人が殺された勘定になる。つまり、メキシコで「平和」というときには、ディスコのピースマークの大メダルやヘイト・アシュベリーのV サインとはわけが違うということだ。

どの露店商でも売っている、インディオのサラーピ(外套として用いる幾何学模様の毛布)に毛糸で編んだヘッドギアーみたいな帽子と木を刻んだだけの突撃用ライフルを抱えた6ペソの小さなサパティスタ人形はさておき(他にもサパティスタのキーリング、ペンと鉛筆のセットがある)、最も辺鄙で最も不毛な州の都、トゥストラはどうしようもなくノーマルだった。

それでも選挙前夜には、投票の結果いかんでは暴動やゲリラ戦が起きるかもしれないのを危惧した、大勢の買い物する市民がショッピングセンターにいた。アメリカ人なら弾薬やドイツの大型番犬ロットワイラーを買ってるところを、メキシコ人は食料を買っていた。アメリカ人に比べて、決して暴力的とは言えないメキシコ人は料理がうまかった。

チアパス州で2番目に大きな町、サン・クリストバルは、元旦の早朝に町の中心部に押し寄せて宮殿、ラジオ局、重要な広場を24時間占拠したサパティスタの主要なターゲットだった。

スペイン征服時代からインディオは汚物のように扱われてきた。耕作に適した土地がまれなメキシコで、インディオは生きた肥やしのごとく扱われた。常に無視されて搾取される力を失った人々がサパティスタを形成する。世界に向けてよく発言する、学生に受けの良い副司令官マルコスは、色の白い都会の洗練されたメスティソ(白人との混血)ではあったが。

サン・クリストバルはサパティスタと同じくらい貧乏かと思えば、実に気が利いていて美しかった。マドリードのように格調高く見せるスペイン植民地風建物と、小さな通りに列柱を備えた市場があった。ここに高価に飾り立てられた教会があるのはインディオに課せられた強制労働のせいだと教えられる。身だしなみのよいマグダラのマリアを彫るのは、鉱山や切り立った斜面で市場向けの野菜を作るよりましというわけで、次から次へと教会が建てられた。

今日、インディオがしてるのは、教会の外に座ってヒッピーに芸術品や工芸品を売ることだ。サン・クリストバルにはたくさんのヒッピーがいた。経験を積んだ大昔のヒッピー。平和のシンボルが鼻ピアスや眉毛ピアスの装飾になるネオ・ヒッピー。頑固な菜食主義者。強烈に臭う、ドイツ人バックパッカー・ヒッピー。彼らはサパティスタに興奮した。

サパティスタの反乱がメキシコ流のうまい宣伝になるには血を流す必要があった。メキシコ軍が到着するなりご丁寧にも、軍の発表では145人、地元の司教の話では500人、ヒッピーでは1000人、を殺害する。もちろん負傷者のほとんどは罪のない人たちだった。罪のある人たちは隠れようとするだろうし、撃ち返すはずだ。軍がサン・クリストバルや他の町を奪回したとき、あまりにも無視されすぎて搾取されすぎに見える、何もせずにただ立っていたインディオの農民が撃たれた。

インディオを撃っていたのがメキシコ軍というのではなく、イラク軍だったら、すべてはオーライだったろうか?ジョージ・ブッシュ(パパ)はバグダッドの代わりにトゥストラに爆弾を落とすべきだったのでは?

文化協会の掲示板にはサパティスタに関するレクチャーと、重要な反乱というイヴェントの現場を歩いて宮殿を眺めるツアーの募集が出ていた。軍隊が到着する前に反乱者らは退却していたから、弾丸の跡はあっても実際に戦闘はなかった。

レクチャーを行うメキシコシティ出身の大学院生、フアンは、サパティスタの反抗には3つの根本的原因があると言った。まずは国のダメな富の分配。次にNAFTA だ。メキシコのカンペシーノ(農民)はトラクターを使わずに、なたで枝木や根を掘り起こす。ところが、NAFTA のせいで、アメリカの農業関連産業や連邦のあらゆる助成金、政府の価格買い支えやうさんくさい税金破壊と夫自身が直接競争する羽目になることに妻たちが気づいた。「先住民にはNAFTA は死亡証明書だった」とフアンは言った。サパティスタは合衆国農務省を攻撃しているべきだったが、ワシントンは遠い上に、正月に格安航空券を手に入れるのは難しい。

しかしながら、最も重要な第3の原因は土地改正だ。チアパスの土地をマザー・テレサにも公平すぎるやり方で再分配できるにせよ、みんなが今まで通りの45度に傾斜したベッドカヴァーサイズの一区画を手にして終わる。やっと農地が自分のものになっても、屋外のトイレから納屋に行くのにロープを伝って険しい峰を登らなければならないときに、果たしてサパティスタの怒りが収まるものかどうか?

メキシコは混乱している。メキシコは面食らっている。複雑で漠然としたことにまったくの無効が混じる。権威を傘に着るのが好きでなんでもお役所風なくせして、なにもかもうまくいかない。誰も彼もが常に「マニアーナ(明日)」と言って済ませるしかない。

メキシコ人には僕たちとは違うソウルがある。彼らには派手な飾りとスパイス漬けの、おまけに安いときてる、特別仕立ての天国がある。

いやいや、そういうことではない。彼らの国が65年間、与党の白人によって治められてきたということなんだ。与党(政府)とは経済のこと、そして人生とは支援の見返り、割りのいい仕事を意味していた。

サン・クリストバル周辺のインディオの町、ジナカンタンはどんな物見遊山旅行でもぜひ立ち寄るべき町だ。生活を快適にする近代的設備はほとんどなくても、親切でカラフルなインディオとすごいカテドラルがある。町の住人はもちろん、サパティスタを支持しているんだろうと、この地域で何年も過ごすアメリカ人の人類学者、ビルに訊ねてみた。「ジナカンタンが誰かを支持してるなど想像できないね。彼らはものすごく気ままで、自立心が強いんだ」と彼は言った。湾岸戦争のあいだも、争いごとに巻き込まれないように超自然の保護者、蝶の精霊を呼び出していた。なんだって彼らは湾岸戦争のことをそんなに心配したのか?「石油だよ。彼らはこう考えたんだ。クウェートには石油がある。メキシコにも石油がある。まさかとは思うがそれに気づかれたらどうしよう」。その点では彼らの推測はブッシュ政権の推理とうりふたつだ。

投票日の午後遅く、サン・クリストバルの投票ブースでは「ひょっとして暴動?」のごたごたが持ち上がっていた。ここは選挙人名簿に登録されなかった人の不在投票が認められた特別な投票場だ。しかし目下の左翼の呼び物だったせいとツーリストのリゾート地であるせいでサン・クリストバルには他の町から余分な訪問客が居合わせていた。案の定、投票場が投票用紙を使い果たして列に並んだ投票できない人々がブースになだれ込んだ。「釈明を要求する!」のシュプレヒコール。「投票がしたい」の要求。「投票用紙を燃やせ!」の的はずれな要求。非道行為を働くメキシコ人ジャーナリストが僕にどこの記者かと訊ねる。「ローリングストーン誌だ」と答えると、やつは途方もなく時代遅れな「right on (よーし、いいぞ!)」で応えた。広場では喧嘩とぶつくさ不平のつぶやきと相づちが。誰かが「マルコス!」と大声を上げる。別の誰かが「革命!」と叫んだが、大勢の人だかりに目をやると、全メキシコ人が笑っていた。だが、インディオとメスティソの顔の中に散在するグリンゴ(白人)ヒッピーの顔はまじだった。不機嫌に口元を歪め、目は「1968年コロンビア大学の再現なるか!」の夢に輝いたままだった。

選挙の夜にトゥストラのダウンタウンで10分間に連続して起きた反PRI の窓ガラス粉砕騒ぎに僕は間に合わなかった。首都や他の数カ所でも同じことが起きた。で、それっきりだった。多分、メキシコは危険をはらんだ情勢なんだろうが、それがまたメキシコでもあった。導火線はいっぱいあっても、爆弾を忘れたやつがいた。

午後の2時から5時まで、トゥストラは昼食とシエスタのために店が閉まる。同行する通訳のローランドが、町を見下ろす丘の上の気持ちのいいバンガローに僕を招待してくれた。従兄弟、義理の親、友人、子供たち、そしてママと、1ダースの人間がそこにいた。ローランドの妻は大皿3枚分のバナナの葉の上に乗るローストポークを料理していた。彼女はそれをライスとグアカモーレ(アボガドを潰してトマトとタマネギと薬味を加えたメキシコ料理のサラダ)とトウガラシ、蒸したタマネギ、焼きたてのトルティーヤと一緒に出した。ローランドと僕だけが英語を話し、融通の効くベルリッツのおかげとはいえ、僕らはまったく雄弁だった。でも、しゃべったのは政治についてではない。それにここにはでかくて黒い靴をはいてる人間はひとりもいない。午後、女性たちはハイヒールに宝石を身につけていた。ここは礼儀正しい国なのだ。

メキシコ人は選挙をした。なにも変わらなかった。メキシコ人は世界が政治など必要としてないことを悟り、世界にはもっとランチが必要だと悟る。

●1997年7月7日、メキシコ市長選で初の野党PRD 候補者の2000年の大統領選を意識したカルデナスが圧勝して、「ビバ、メヒコ!」の歓声にわいた。しかしながら、カルデナスは元PRI の州知事で、不正や豪勢な暮らしぶりが指摘される与党PRI 型の政治家だった。(朝日新聞 July 8 1997 )
▲Rolling Stone Nov.1994 by P.J.O'Rourke からの抜粋
●TAMA- 22 掲載、FALL 1997