アフリカから香港から ノーウーマン・ノークライ
YOSHIKO YAMAGUCHI

香港島の南の端スタンレーに行ったときのこと。連れてってくれた中国人のリュンさんがみやげ物屋のつるしのT シャツを指して「THAT'S INTERESTING 」と言った。 それはイギリスのユニオンジャックを半分赤く塗り替えて中国国旗にしてあるイラスト。こういうときなんて返事をしていいのか私にはわからない。
リュン氏はエリートなのでアメリカなどに移民するチャンスはごろごろ転がっている。でも彼は香港が好きだからここから離れるつもりはないと言っていた。
香港の二大英字新聞のひとつスタンダード紙の日替わりページは曜日によって中国、アメリカ、カナダ、オーストラリア、UK と変わる。もちろん、これは移民希望者への情報提供。だから日本だのアフリカだののページはない。
図書館の児童書のコーナーにはシリーズ「世界のチャイニーズ」みたいな本があって、これもアメリカ、UK 、オーストラリア、カナダなどで頑張る中国人の情報であった。 でも私の周りにいる中国人たちは誰も香港から出ていくことは考えていない。チャンスはあってもあえて留まる方を選んでいる。それに一度移民してみたが戻ってきたという人もいる。私だって(日本から出歩くことばかり考えてはいるけれど)一生、「日本人をやめる?」となると考えるよ。 ニュースは毎日のように中国とイギリスの論争を取り上げる。コミュニズムを「HATE してる」と言ってた香港人(ホンコンカン)の友達。香港はこれからどこへ行くんだろう?今のところ誰にもわからない。

だいたい都立高校ではすっかり「落ちこぼれ」になってた私。授業は3割くらいしか聞いてなかったから歴史の授業で何をやったかなんて憶えてもいないし身についてもいない。まして年号と人名を憶えるのが何より大切な学習内容だったから、教科書問題で「侵略」を「侵入」に書き換えたとか、そういうこと以前の問題だと私はいつも思っていた。
そう、私には日本が第二次大戦でやったことに対する問題意識というのはほとんどなかった。最近になって「謝る」「謝らない」と国際世論に上っているので「そりゃまずいよなー」と頭では思うけど。別に心は痛くないのだ。

ケニアでのこと。今年、コリアンとインドネシア人の友達ができた。私の46歳の大家が終戦記念日にお詫びの意味を込めてご馳走したいと言うので私たちは一日がかりで料理を作ってパーティを開いた。
彼が従軍慰安婦についてどう思うか聞こうとして「第二次大戦」と口に出すとそれまでの楽しい雰囲気がすっかり変わってしまった。
「今日は私たちの独立記念日だからその話が出ると思っていた」とコリアンの彼女が切り出した(私たちは終戦記念日が独立記念日だとは知らなかった)。
そして私と同世代の「戦争を体験してない世代」の彼女たちは日本の侵略下の状況について、家族や親類に何が起こったか具体的に語り始めた。インドネシアの20代か30代そこそこの女の子は親族の半分以上が殺されたと言って泣き出してしまった。でも彼女たちは私たちを責めるためにそんな話がしたかったんじゃなく、自分たちの中にある「日本への憎しみ」を解決したかったんだって。
憎しみながら生きていくのはつらいのだ。私は困った。涙流してる友達の前で私の心は全然痛くないんだから。でも彼女たちには日本人である私を友達として受け入れるのにこういうプロセスが必要だった。一方こっちは独立記念日だってことも知らなかったし。この差はなんだ?

香港でのこと。ケニアでのことがあったから私は気をつけようと思った。中国人のカップルの家でホームステイしている私。着いたその日にTV でたまたま戦争の映画のワンシーン。大家のライさんに「第二次大戦中の日本兵ですよ。ところで貴方はどう思ってますか?」といきなり聞かれた。
職場で一緒に働いてるリュンさんもアイリーンもとても気さくで親切で、すぐ仲良くなった。ある日スタンレーに一緒に行って観光コースのひとつである外人墓地へ行った。無知な私は「日本にも外人墓地があるんだよ、ヨコハマといって.....」などと言っていた。
墓地の入口の大きな石柱に香港の地図があって日本軍がどうやって入ってきたかラインで示してある。そのときに死んだ人たち!私は無口になっちゃってしばらく説明書きを読んでた。
リュンさんが「貴方も、私の友人の他の日本人も、歴史の重荷を背負ってるね。でも戦争のとき起こったことは貴女たちの責任じゃないよ。貴方が背負うべきじゃない。歴史に縛られて今の僕たちのあいだに壁を作るのはやめよう」と言った。
アイリーンは21歳。元気でいい娘。「ヨシコが来る前、日本人がオフィスに来ると聞いて恐かった」「でも、もう.....済んだこと、ね?」と言って笑った。
そう私には最初から済んだことだったし、歴史に対する責任感なんて全然なかったんだ。でもいろんな人に会うほどに知らないっていうのはまずいよね、「絶対まずい」と思うのだった。
もちろん壁なんて作りたくもない。歴史に心は痛まないんだけど。友達の心の傷には少し痛いかな?

アフリカでのこと。レゲエが好きだった。私にとってラスタはかっこいいものだった。悲しいときボブ・マーリーの「ノーウーマン・ノークライ」を聞いて涙を流すとすっきりしたんだけど。ほんもののラスタの生活をしてる人に出会ってしまったんだ。
アフリカで冷蔵庫もガスも、ほとんど家具らしきものもない家で彼女は音楽を愛していた。 大きなラジカセとギターとアフリカンドラムと子供。彼女の旦那はラスタだった。子供ができたのに彼はどこかへ行ってしまった。噂では他に女ができたとか民族のためにゲリラ戦に加わったとか。 彼はアフリカ人だ。そして彼女は日本人。ハーフの子供は自然のラスタヘアーのまま、その国の子供のための小学校に入学して担任の教師から頭に殺虫剤をかけられた。
クラスでシラミが発生したんだ。ラスタの信仰では髪は切ったりしてはいけないらしい。でも小学校1年生のラスタの少年は毎日殺虫剤の臭いをさせて帰ってくる。なによりからだへの害が恐いと言って彼女は少年の髪を短く切った。
彼女のからだはとても細い。ラスタはベジタリアンなのだ。彼女と子供を誘って食事に行く友人たちはいつもなるべく栄養がとれそうなところへ連れていく。子供が肉を食べれるようにと無理やり焼き肉屋に連れていったこともあった。
今彼女はひとりで子供たちを育てている。夜、レストランで働いて深夜に帰ってくる。母国から遠く離れたアフリカで。
ほとんどの先進諸国の外国人滞在者はここアフリカでは金持ちになる。だから彼女の生活はよけい極端に貧しく見えるらしい。もっとも、普通のアフリカ人よりはいい暮らしなのだが。そしてみんなは思う。自分の国に帰った方がいいと。でも彼女は自分の国で暮らすよりアフリカで暮らしたいと言った。
「誰がどう生きようととやかく干渉されないで自由に生きられるから」

初めて彼女がアフリカに来たとき道端に転がってる子供たちを見て心が痛んだ。
そしてミルクやパンを買ってきて食べさせた。知り合いは「ここはアフリカなんだよ。そんなことをしたらきりがない」と言った。
彼女は真剣にラスタを生きている。細いからだにボサボサの髪。私はかっこいいから「ラスタ」と思ってたけど。彼女にとってはそんなものじゃない。
エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエは死んでしまい(ラスタ信者は信じてないが)アフリカ、サヘル地方を覆う干ばつと飢餓はエチオピアから大量の難民を出している。ラスタのジャーはそれでも彼女たちの救いになるんだろうか。
つらいとき「EVERYTHINNG GONNA BE ALLRIGHT 」と聞くと確かにまたやっていけるって気持ちにはなったけど。

●TAMA- 12 掲載、1993年CHILL