メディアのネタで活躍する連続殺人犯が都会のしゃれたブギーマンになっている。
彼らは名士であり、殺人サーキットのスターだ。

アメリカのTV ドラマ「ダブルフェイス」にもなった悪名高き殺人鬼テッド・バンディは教養があって貞節なアメリカの中流階級の女子大生グループに好かれた。彼は会ったこともない女性からさんざんプロポーズされて1989年フロリダでとうとう電気椅子送りになったときには監獄がファンや好き者、グルーピー志願の女性で取り囲まれる。

司法を学んだテッド・バンディは社会を這い上がることに挫折した若き共和党員のスノッブで、裁判では自分の弁護を自分でやって注目を浴びる。トマス・ハリスのレクター博士ほど魅惑的ではないにしろ、"ボストン・ストラングラー"とか"サムの息子"と呼ばれるカラフルな生きざまに見られるケチな妖しい魅力があり、ハンサムな男が築き上げた数字は本人いわく、「三桁になるかな..... 」実際には30人程度でも、彼に関する記事はどれも「80人殺していても無理からぬこと」と大げさに書き立てた。

1990年にモントリオールのキャンパスで14人の女性を撃ち殺したマーク・レビンは怒りの標的を浮浪者に向ける必要がなかった。彼はフェミニストが大嫌いで、地位の高い仕事に就くカナダ人女性という彼のターゲットを狙う前に3ページに及ぶ声明文を読み上げる。その叫びは殺人犯の歴史が新たな局面を迎えたことをほのめかすほどにべもなく、自暴自棄で、慣例的でなく、犠牲者を身構えさせる。

たとえ9人殺害したマンソンファミリーの教祖チャールズ・マンソンやサムの息子あるいは切り裂き男ヨークシャー・リパーに「理由」があるにしても、現実の世界ではなんのモラル感覚も作らない。現実の世界には彼らの物理的攻撃が存在するだけで、頭のなかで起きてるはずの、私たちの心を捕らえるほど並外れた美意識で何かを成し遂げるその過程はわかりようがない。彼らは彼ら自身のモラルの世界の主人であって自分が的を得ていると信じている。

1934年に10歳のグレース・ブッドを絞め殺し、料理して食べた罪で死刑になったアルバート・フィッシュは精神異常者だった。法律上は有罪ではなかったが、「我々は誰も聖人じゃない」と言った冷静でしたたかな青白い顔の老人にショックを受けて立腹した陪審員が身近な隣人の心にも起こりうるかもしれないことに気づかされ、肝を冷やして死刑にした。

4回結婚して6人の子供の父であり孫までいるフィッシュは自分のことを鬱病気味な子供を救うために遣わされたキリストだと思っていた。彼は人生の半分を身体に針を挿入して過ごし、その針が股間の奥の肉のなかを自由に動き回って座るときにはいつも不便を感じていた(レントゲン写真には29本の針が見える)。彼は新聞の切り抜きを自分のもライヴァルの殺人犯のも収集している。そしてグレースを食べるのに9日間かかり、その間ずっとある一定の興奮状態にいたと告白している。

彼が6年後に捕まったのはグレースの両親に手紙を書いたせいだった。両親を安心させようと暴行など一切加えていないと手紙で言い切る。確かに彼は彼女を食べただけだった。罪を犯すことで彼にはどんな種類であれモラルのバランスがなかった。フィッシュは死刑執行が近づくと元気づき、「なんというスリルだ電気椅子で死ぬとは!まだ試したことがない!」と叫んだ。脚色された当時の記事は彼の話を「体内の針で電気椅子が雨のように降り注ぐ青いスパークを放った」と結んでいる。

フィッシュはたまたま30年代の「潜在」と「倒錯」についての理論という不完全で適応性に欠けた精神医学の途中に現れた、子供の頃の悪夢と組織化された肉体的、感情的、そして性的な虐待以外には何も提供してくれない孤児院を出たり入ったりの生活の結果だった。他にも似たような恐ろしい幼年期の教育を受けた者がいるが心理学上の当てずっぽうのゲームと同じ危険を犯すような規定はできない。まともに生きてる人の生涯を左右することになるからだ。

「連続殺人犯シリアルキラー」という専門用語は70年代半ばに登場する。映画のモンスターが退廃的な中世のヴァンパイアからショッピングモールのゾンビーに姿を変え、カルトとなったスリル満点の殺人鬼が大衆を包囲する頃だ。彼らはこれといって特色のない郊外の隣人で、神や悪魔使いやどこかの惑星の支配者といったスーパーヒーローが心のなかにいて彼らに復讐をしていた。シリアルキラーの写真はどれもみな退屈な生活を反映していて怖かった。それでもとにかく殺人犯は喜び以外の理由で何度も何度も繰り返して殺人を犯すものではない。

サンフランシスコのゾディアックは60年代後半に6人射殺したが、何年も地元の警察や報道機関をあざ笑って、もっと大勢殺したと入念に処理された暗号の覚書を送りつける。70年代半ばから送り続けたあざ笑いの殺人のスコアと扇動するような彼が作った情報にもかかわらず、警察の仕事はひどく効果のないもので最後まで手をゆるめないゲームはへまな警官を犠牲にする。新聞のコラムによれば、それは彼のキャリアの威信と名声も同然で、彼のことを民間伝承の架空の人物よりもっとデタラメな仮説を要求して得体の知れない動きをするポップでカルトなブギーマンに変える。

あるシリアルキラーは秘密保持のために殺しを続ける。またあるシリアルキラーは名声を勝ち得た状態を見せびらかすために殺しを続ける。確かに捕まりたいと思ってやる殺人もあったが、彼らが15分間の評判を宣伝するために恐ろしい殺人のキャリアをでっち上げることもわかっている。

ローランス・カスダンの映画「殺したいほどアイ・ラヴ・ユー」のなかには「殺人はアメリカの国技みたいなもの」というセリフがある。アメリカはどんなことでも人気があって最高でなければならない。大量殺人でもそうだ。死体の数がスポーツ統計値でもあるかのようにやり取りされ、実生活の大量殺人犯がちょっとばかり退屈に思えてきた大衆はホントにすごい死体の数をモノにする度胸のある殺人鬼を待ちわびる。さあ、おいでよ、ヘンリー・リー・ルーカス!

ルーカスは母親殺しで刑期を務めた流れ者だ。1982年にテキサスで二重殺人にかかわった容疑で挙げられ、数年後に全米のハイウェーで文字通り何百人も殺したと告白する。彼はありふれた方便としての告白で未解決の殺しを片づけるために州から州へジェット機で飛び回ることで投獄期間を過ごす。その死体の数は多く見積もって630人。アメリカは最大のロードサイド・モンスターを迎える。ところがこれを完璧に撤回すると、世間をあっと言わせようとしてうまくいかなかった警察が未解決の犯罪にケリをつけようと躍起になりまんまとだまされただけだと言い張る。何年にも及び相手をうまくやり込めたことでルーカスはまさに警察が聞きたがってることをしゃべる名人になっていた。

彼には彼をむかつく大人にしたむかつく子供時代という連続殺人犯の背景がある。それでも630人は殺していなかった。だまされやすい報道機関とご都合主義の警察が、630人という功績を用意されて犠牲者をどうこてんぱんにやっつけバーベキューにしたか説明して共犯者は(多分)そのとき死体を食べたのに「バーベキューソースが好きじゃないから食べなかった」と告白する男の自供を本当だったらと願ってつまずいた。

ルーカス事件は切り裂きジャック以来のシリアルキラーというメディアのロマンスがある種の安定期に達したことを示唆している。そして警察は行き止まりの殺人事件のファイルをすべて閉じさせた。彼の話は1990年春にニューヨークでカルトヒットを飛ばすジョン・マクノートンの映画「ヘンリー:Portrait of A Serial Killer 」の基盤にもなった。しかし彼に与えられた信頼性がモンスターを信じたい私たちの必要性を表してるのは確かなこと。そしてシリアルキラーとはまさにモンスターとしての殺し屋のこと。型にはまった動機から大きく外れた殺し屋で、喜びのために殺すという純粋な悪として突き返される。それはマフィアの掟を押しつける悪漢から湾岸戦争で爆弾を落とすパイロットまで、すべての殺し屋に含まれる可能性があった。

トマス・ハリスからブレット・イーストン・エリスまで

連続殺人犯シリアルキラーの魅惑が強まるなか、彼らは犯罪フィクション作家への贈り物でもあり、彼らが登場する映画に影響を与えている。

シリアルキラー小説のキングはトマス・ハリスだ。彼のエポック的小説「レッドドラゴン(マイケル・マンの映画「マンハンター」)」とそれに取って代わる「羊たちの沈黙(ジョナサン・デミが映画化)」で、ハリスはフィクション上のシリアルキラーの2つの基本的カテゴリーをきちんと図解する。痛ましいモンスターと愛すべきモンスター。「レッドドラゴン」に登場するレッドドラゴンと「羊たちの沈黙」のバッファロー・ビルがその痛ましいモンスターで、どちらの男にも悪夢を見る背景があり、若い女性の死体を傷つけるという復讐に捕らわれている。確実に追いつめられ、殺され、とがめられる男たち。現実の世界ではひどく適応性に欠けたボストン・ストレンジャーやヘンリー・リー・ルーカスみたいな人物だ。

もうひとつが実はトマス・ハリスの小説の魅力でもある、映画「羊たちの沈黙」でアンソニー・ホプキンスがクールに具体化したハンニバル・レクター博士がそれの、極めつけの愛すべきモンスター。レクターは彼の職業に特有な尊大さのすべてを持ち合わせた天才的な精神科医という畏敬の念を表した想像の人物で、人を殺して食べるのが気晴らしという特異性を持つ。それが彼のニックネーム「人食いハンニバル」の謂われでもあった。博士は純然たる悪の産物として描かれていて言い訳するような境遇、地獄の子供時代はない。
「たまたま私が存在した。私を特定の影響の結果生じたものとする低劣な存在に引き下げることはできない」
レクターは独房で拘束衣を着せられていても犠牲者を傷つける能力がある、科学者の頭脳とピラニアの心を持った男にすぎない。

そして恐怖を最後に締めくくるのが超ブラックなユーモアのセンス。素晴らしい料理で人をもてなし、グルメ雑誌に数多くの記事を寄せているレクターはなぜディナーパーティの子牛の内臓スイートブレッドの代わりに殺した男の内臓を料理して出したのか聞かれて、そっけなく答えた。「人がぶらりと訪ねてきて買い物をする時間がないという経験をしたことがないのか?冷蔵庫にあるもので間に合わせなけりゃなるまい」
それにまたレクターのきちっと収集された眺望としての記憶がどんな偉大な画家にも匹敵するアートを見せる。

エリオット・レイトンのシリアルキラーの本質を探る「Hunting Humans 」はほとんどが労働者階級や中流と下層のぎりぎりの線から吸い寄せられる現実の悪の手本を立証する。「自分の人生を終わらせる能力のある人間は少なくない....... 彼らは不釣り合いな賭けだとか、ばかげた自殺あるいは殺人を執行することになる責任やかかわり合い、信念、感想といった入り組んだものに縛られている」そして「シリアルキラーはいつもだいたい白人で、自分と同じ人種内で殺人を行い、その行為は欲求不満と一致することが多い」

イギリスの シリアルキラーのスペシャリスト、デレク・レイモンドのブレッド・イーストン・エリスと同じく出版社にはねつけられた「I Was Dora Suarez 」では、彼らは愛すべきモンスターでもなければ憐れなモンスターでもない、ただのありふれた人間だと言明している。うんざりする人間と殺人鬼は似たようなものでほとんどの殺人犯が「退屈」と「絶望」を明らかにする。

主流の文学が注目し始めている90年代初頭に、サイモン&シャスター社が趣味の問題と突っぱねた、やりたい放題をやり尽くすモンスター青年ブレッド・イーストン・エリスの「アメリカンサイコ」は好かれたくてたまらない若い作家と中庸を好む評論家という社会構造に荒っぽいアプローチをかけた。この小説は異様に堕落した性的犯罪について長々と書くばかりでなく「GQ 」のような雑誌が作る、実存がすべて地獄のような地獄に暮らすヤッピーの食い意地という明瞭なメタファーとしての現象を用いた。「この本の息の根を止めよ」と書いたNY タイムズやフェミニストのボイコット運動に対し、ブレッド・イーストン・エリスは「殺人が劣悪で、苦痛に満ち、限りなく醜悪なものだということを書きたかった」と述べた。「マスコミの敵意や了見の狭さのほうが本の内容よりよっぽど耐え難い」

「アメリカンサイコ」は精神的嫌悪をもよおさせる80年代を表すもので物欲の虜となっている私たちが人間による絶対的操作の時代にいることを示唆している。そして私たちは善悪についての疑問や感情の麻痺からくる欠落を埋める何かが欲しいと思っている。メディアに煽られた殺人のスコアとか、血の塊とか、倦怠感を満たすものを。
たとえ「アメリカンサイコ」に動揺しても徹底的に描かれた病的な暴力と退屈さは私たちが抱えてるものだ。むしろそっちのほうに恐怖を感じるべきではないだろうか。

▲トマス・ハリス作品:「ブラックサンデー」1976新潮社(77年ジョン・フランケンハイマーが映画化)、「レッドドラゴン」1985ハヤカワノヴェルズ(86年マイケル・マンが映画化:マンハンター"刑事グラハム/ 凍りついた欲望")、「羊たちの沈黙」1989新潮文庫(91年ジョナサン・デミが映画化)、「ハンニバル」1999新潮文庫(2000年リドリー・スコットが映画化)
●TAMA- 6 掲載、HOT 1991