アフロビート2000

パリのダンスフロアを満員にするのもアフロビートならアメリカのレコードストアから飛ぶように売れているのもアフロビート。でも新世代のリスナーをつかんでるアフロビートを追求すると発祥の地アフリカよりアメリカとヨーロッパにできたバスストップにたどり着く。  

アフリカ音楽のアメリカ大衆文化への影響力は計り知れない。40年代50年代エキゾティックとして登場したのがわけなくアカデミックな音楽家の活動範囲となり60年代の公民権運動と70年代の大がかりな黒人のプライド志向がアフリカの同時代音楽への興味を積極的に推進してナイジェリアのハイライフからザイールのザイコまで西洋とアフリカ間に相互影響の伝達ルートを開く。
80年代ワールドミュージックというコンセプトが根を下ろし出すとアフリカンポップが世界の旅行者、ハードコアなアフリカ中心主義者、ラジオのプログラマーお得意の音楽となる。そしてこの再燃だ。
98年のコンピレーションアルバム「AfricaFunk 」でマヌ・ディバンゴのようなアフリカ伝説のミュージシャンのトラックに晒された新世代のファンは続くラファイエット・アフロロック・バンドやマンディンゴといったレコードの再販でダンスフロアに眠っていたアフロファンクへの興味を復活させた。「Club Africa 」や売れに売れた「Racubah! 」はアフロファンクにどっぷりの電子音楽やアシッドジャズに拍車をかけられたファンが録音テープを作った。ヨーロッパのポップスにヒップホップの美意識とアフロファンクの伝統をパン・エスニック的にブレンドして成功したザップ・ママやレズ・ヌビアンズがいればニューヨーク出身のフェラ・クティのカヴァーバンドがいる。そしてフェラ自身がいた。  

フェラ・アニクラポ・クティはもろファンクにナイジェリアのハイライフの最高潮のロックをブレンドした音楽と政治の両方の起爆剤を組み合わせて浮上した。69年〜彼が亡くなる97年8月までにリリースした75枚のアルバムとアフリカの観衆に対しごく当たり前に演奏したパフォーマンスが興味の焦点だったとはいえ彼には政治的態度も霊気も同じように重要だった。
やかましいフェラの口を封じようと腐敗したナイジェリア政府はでっち上げの罪状で彼を450回以上起訴して12回投獄した。彼が家の周囲にフェンスを張り巡らせて築いた独立国、アフリカのリアリティの反映であり芸術的社会的反乱の体現だったカラクタ共和国を77年に軍が包囲、レイプ、殺害なんでもありの果てに破壊したのは有名な話だ(そのときの軍隊をあざける歌が「Zombie 」だった)。  
「同時代の音楽におびただしい影響を及ぼしたと思う」と言うのは21世紀に父の遺産を伝える壮大な職務を負わされたフェラの息子フェミ・クティだ。「まさにビートルズからミック・ジャガー、ジェームズ・ブラウンまでが父の歌を聴いてたって言う」
フェラのバンド、エジプト80でプレイしていたフェミは87年独自な活動を開始する。フェミの舵取りで再販されたフェラのMCA アメリカのベスト盤2枚組のCD とほぼ時を同じくしてフェミの文句なく父親の延長線上にある初のメジャーデビューアルバム「Shoki Shoki 」が発売された。顕著な違いは一曲が片面丸々にも及ぶフェラのジャムに比べ3〜4分と短いこと。フェラの歌のどれもが堕落した社会と政治動向を批判する「罵りの歌」というヨルバ族の伝統に根ざした。その毒気のほうもかなり濃縮されている。  
レアなファンクレコードの基地シカゴのダスティ・グルーヴ・レコードのリックはラファイエットやマンディンゴのようなアフロとは思えないアフロファンクグループがそろって売れる驚異的再燃をクレイジーと言う。「これも一つの新植民地主義だよ。黒人の音楽だよねって言うような連中に大量に売ってるんだ」  
「フェラにはアイデンティティと強烈な政治的背景があった。フランスやイギリスのグループがそのふりをするなんて気色悪い。昔ラウンジの客に売ってたのを今はアフリカのファンク仲間に売ってるわけだよ」  

いまだにフェラの音楽が長い影を投げる。でもセネガルのソウルマン、バーバ・マールによればそれはアフリカ音楽の注目すべき多様性に通じるたくさんの影響のひとつだ。フェラのグルーヴをそっくり取り込むヨーロッパのミュージシャンとは違いバーバ・マールのようにアフリカ大陸にいても新世代の有名人のように移住していてもアフリカのミュージシャンは伝統を受け継ぎながらそれを最新のものにしている。最も革命的変化は実は海外で起こっていた。
ほとんどの活動がフランスで進行していた。パリが活動基盤の元フェラのバンドのドラマー、トニー・アレンはフェラやフェミとは正反対のクールなサウンドで意識下の暗い未来を売り物にパリのダンスフロアを完全悩殺する。全員がコンゴ系だがパリで融合したビソ・ナ・ビソの8人はヒップホップとコンゴサウンドをフランスの聴衆を征服し尽くすやり方で融合させる。同じくカメルーンとボルドーの両方に借りのある姉妹レズ・ヌビアンズはカヴァーでもサンプリングでもない二人がフィルターとなってレイ・レマ、マヌ・ディバンゴ、ミリアム・マケバ、フェラといった影響をもたらす美しい黒人の聴きたいもの、採用したいもののエッセンスを選び取る「黒人音楽への旅」で成功する。  
ザップ・ママのベルギー人でありザイール人のマリー・ドールネは音作りはニューヨークやシアトルの人間とやるし世界中の音楽の影響を受けていると言う。それに「アフリカ世界の音楽とは思っていない。だって人間らしい音楽だからよ」フェミは別の言い方でこれに触れる。「これが昔からあったって?どうして聴かなかったんだろ?ってアメリカ人が言いそうだ」
●参考資料:RAYGUN jan.2000 VILLAGE VOICE march 28, 2000 FELA: Why blackman carry shit 1998
★MANU DIBANGO [WAKAFRIKA]1994 TONY ALLEN[black voices]1999 Baaba Maal [Nomad Soul ]1997 (ジョン・ハッセルがトランペットを吹くイーノ+ ハッセル、プロデュースの曲がある)