WEST BANK に孤立した ヒップホップカルチャー

ガキ同士の喧嘩を後にしてアラブの街のメインストリートから狭い路地に外れると重いペンダントを幾つも首のまわりでガチャつかせこれ見よがしに歩く17歳のファティは従えたお気に入りの子分を指して「俺のニガー、俺のアラブ人」と呼んだ。
ここは自爆テロやその報復攻撃を含め連日衝突が起きてるパレスチナ自治区の主要都市ラマラだ。エルサレムから北に12マイルのイスラエルのチェックポイントでもアメリカ生まれのパレスチナ人はヴァラエティに富んだアメリカの言葉でしゃべる。ひどいブルックリンなまり、鼻にかかる中西部のスラング、南部人特有のもったりしたしゃべり、そのどれもにアラブのフレーズとだみ声のイントネーションが混じる。迷彩柄のバギーパンツにどでかいジャケットとナイキのスニーカー、LA ストリートギャング出身に見える十代の若者たちは簡単に次の口論に向かってシャッフルする。
イスラエルでは緊張が同居する。ユダヤ人同士が争い、アラブ人同士が争い、アラブとユダヤが争う。アメリカのスラム化した大都市中心部で育ちハイスクールを無事終えられるか気づかう両親によってここに送り込まれたモスリムの子供たちにとり目新しいことは何もない。彼らの親はアメリカの悪影響を恐れるアラブ人店主、卸売業者、タクシー運転手だ。ギャング、ドラッグ、婚前セックスを避けるためアメリカからウエストバンクに送り出された2千5百人ほどのパレスチナ人学生の多くがイスラムについて教えアラビア語をしゃべれと押しつけてパレスチナ伝統漬けにする叔父や叔母など近親家族と暮らす。でもこのパレスチナ人の若者にはしっかり彼ら独自の文化、ヒップホップカルチャーがあった。
ラップは常に公民権を剥奪された人々の声だった。イスラエルで2級市民と見なされる青年としてこのパレスチナ系アメリカ人はその流儀に従いフリースタイルのラップを爆発させてトゥーパック・シャクールぐらい有名になるのを夢見る。そしてDr. ドレーが気の置けない仲間を「niggas 」と呼ぶやり方で「A-raabs 」のような人種を侮辱する言葉を使った。
通りを歩きながら最高のライムでもって相手を凌ごうとするこの金髪や白い肌のせいでパレスチナの居住者というよりウエストバンクの旅行者に見える仲間は団結する。頭を布で覆った老人たちがじっと穴のあくほど見つめてもブランドものじゃないジーンズにアクリルの安物セーターを着た青年たちがわけのわからない彼らの英語の真似をして軽蔑の眼差しであざ笑ってもスカーフをした女性が目を合わせまいと遠くを見て通り過ぎても彼らはあわてない。なにげなくラッパーDMX の定番ジョーク「I don't give a fuck about you niggas! 」と言うと、あの人を見下すエミネム調のラップで世事に疎い通行人をばかにする。
このパレスチナ系アメリカ人のほとんどが合衆国の貧困にあえぐ地域で育つ。そしてDMX やトゥーパックのようなヒーローを駆り立てた他の何にも優先する切迫状態についてじかに学んだ。でも彼らのラップがイスラエルで日の目を見るとは思えない。地元のレーベルが出すのは化石となったヒップホップぐらいでアラブ人差別に反対するラップを発売するなど想像もつかなかった。 「泥にはゴム弾/ガラスには催涙ガス/ハマスには空軍/民間人に爆弾を投下して死者の数は山と膨れる/あんたらは何百万って殺すのに俺たちは何百で桁が違いすぎる」
厚底の靴をはき暗い色のリップスティックをつけて街をぶらつく女の子たちが気にとめてるようには思えない。まさにエルサレムのトレンディーな通りではマシーンガンを振り回すイスラエル兵士がパレスチナのガキの一隊を物色していた。連中は武器を捜してID カードをチェックする。兵士の側もこの子たちと同じくらいに若くて恥をかかせたい衝動ではち切れんばかりだった。
ファティは自分や友達が頻繁に止められて武器チェックされると言う。警察ばかりかクラブでも何も問題ないのにのアラブの名前のせいで断られた。「合衆国の黒人にとっての50年代に逆戻りしたみたいだ。大勢の人間が俺をぶち込みたがってるのがわかったからなりを潜めることにしたよ。それでも頻繁に喧嘩には巻き込まれる」
占領地にいるパレスチナの若者にとり好機と呼べるものはほとんどない。子供たちは電話や水道、ガスの配管や電気なしに育ったにもかかわらずたっぷりものが揃ったスーパーマーケットを完備する侵略者のイスラエル人入植地が見えた。
子供のためにイスラエルやウエストバンクに子供を送るという親の決定は滑稽で不合理なものに思えた。悪名高き政治上の不公平と人種的緊迫状態の温床であるウエストバンクと細長いガザ地区は1967年以降ずっと厳格なイスラエル統治下に置かれる占領地だ。イスラエル入植者との血みどろの戦争によって生まれ故郷は軍の夜間外出禁止令と人権冒涜でうち砕かれた。90年代CNN が流した重装備のイスラエル兵士vs 石を投げるパレスチナ少年のインティファーダの映像はここから来ている。しかしアラブから来た移民がよく身を落ち着けるデトロイトやシカゴといった大都市のスラム化した戦闘地帯から見ると少なくともこの人種的分離はよく見慣れたものに思えた。
ラマラの子供たちはラップするのがカタルシスで17歳の怒りと無力を激しく怒る歌詞一点に集中させる。予想に反しヒップホップは彼らがパレスチナ文化とつながるための手段でもあった。同郷のアラブ人が耐え抜く状況を説明するのにライムが使われインティファーダの間ずっと自分の命を危険にさらした土着のアラブ人に対する自責の念でアメリカ生まれの子供たちはよくラップした、もっと早く生まれていれば蜂起に加われたものをとでも言いたげに。
両親が肉製品の卸売業者のファティは15歳でクリーヴランドを離れ6人の兄弟分と一緒にラマラに到着した。「地獄のようだった」と当時を思い起こす。「ここにいたくなかった。周囲を見回して思った、これが俺の同胞でなんて生き方なんだってね。でも俺には変えられない。大統領だって無理なのにどうやって変えろっていうんだ?俺の仲間、同胞がこんな風に生きてるのを見るのはほんとつらかった」
イスラエルに出現したファティのようなパレスチナ系アメリカ人は親のビジネスの金が持ち込まれるせいで他のアラブの同胞より裕福だ。それでもイスラエルの下層階級なのに変わりはなくアメリカのパスポートのおかげでイスラエルのチェックポイントを自由に通行することができた。この社会の進歩から取り残された境遇がアメリカの社会的不平等と抑圧から生まれたジャンルの音楽ヒップホップに頼る理由だった。
「やっと水面に出てきた黒人は奴隷制度、公民権を経験した。でも世界でパレスチナ人の文化ほど難しい文化はない。自分の国が占領されて奪われた。母親や姉や妹が銃を持ったイスラエル兵に引きずり回されるのを国の権力者はただ指をくわえて見てるしかなかった。最悪なのは今でも実際に起きたこととして認められてないことだ。これにはうんざりだ」こういう公民権の剥奪がラマラのラッパーの憤りに火を注ぐ。
水パイプよりマールボロが好きなファティはアメリカにいるときは自分はアラブと思ったがここでは自分はアメリカ人だと思うと言った。「着るものも違うしどこにいても俺の考える俺じゃない。俺たちはまるでここウエストバンクに浮いた俺たちだけのちっぽけな世界のアメリカ人だよ」 彼らの多くが結局はアメリカに戻るのは避けられないことのように思える。
過激な男らしいありとあらゆるポーズに隠れていてもこのラッパーたちには力の限り挑戦するラップとラップのあいだからにじみ出るやさしさと決まってアメリカの少年文化の弱点と見られるあどけなさがある。歌詞と歌詞のあいだにママや幼年期やパパとの複雑な関係をラップした。百万枚売れるレコードやアルマーニのスーツ、ベントレー、スーパーモデルと一発やるマンガ・ライフスタイルは彼らのおやじのそれから何億光年も離れているばかりかイスラムの教えにまっこうから衝突した。
ここでは何もなくてもデートするだけで相手の女の子は売春婦と見られる。それにラップするからといってその通りに生きるわけでもない。「でっちあげとは思わない。どんな風に生きたいかを言ってるにすぎない」とファティ。ヒップホップを貫通する現実の誇張は子供たちにとり主要な危険、退屈への反抗だ。ファティと仲間は定期的にダウンタウンの店をぶらつきE メールをチェックしにインターネットカフェに寄る。刺激の追求が彼らが通う学校の壁に描かれた奇妙なグラフィティの出現にも影響を与えた。

●参考資料:RAYGUN summer 2000 (TAMA29 掲載、SPRING 2001 )