とり憑かれたふたりのアーティストの融合
アートと人生についての映画
<ザ・フライ>と<戦慄の絆>の後にデイヴィッド・クローネンバーグは映画化が不可能とされてきたカルト小説<裸のランチ>をともかくもやってみようと決意する。
小説<裸のランチ>は映画公開当時78歳になるヒップスター、ビート・ジェネレーションの黒幕でパンクのゴッドファーザー、ウィリアム・バロウズの衝撃の代表作で1959年に本が出版されるとアメリカで猥褻裁判を巻き起こした。突然変異体、ウイルス、気味の悪い科学、奇妙なセックス、オーガズムの暴力で満たされた小説はまたノーマン・メイラーから「天才の名に値すると思われる現存するアメリカの唯一の作家」と讃えられ、フランス政府からは文化勲章を贈られた。
バロウズの父方の祖父は最初に計算機のからくりを考案した人物。母方の叔父にはアイビー・リーというプレスリリースの生みの親でロックフェラーのイメージメーカー、ナチの宣伝にも貢献した「悪の天才」がいる。そんなセントルイスの裕福な環境で育ったバロウズが一族から「ノー!」を突きつけられる常軌の逸脱をアメリカ文化の主流に押し上げる作家という媒体になった。
1958年に早々とバロウズの仲間、アレン・ギンズバーグとグレゴリー・コーソが小説の映画化をジョン・ヒューストンに売り込んでいる。1971年にはバロウズ本人がミック・ジャガーが演じるミュージカル映画にしたいと思った。またそれはクローネンバーグが最初のボディホラー映画を作って以来ずっと心に温めてきたアヴァンギャルド小説であり、ジャズのサックス奏者としてバロウズの生き方に精通している俳優ピーター・ウェラーの反抗のバイブルでもあった。彼はそれを演じるのが生涯の夢だった。
これまでの作品<ヴィデオドローム>や<ザ・フライ>でいくらクローネンバーグが奇想天外な考えの達人であるのを証明していても、<ラストエンペラー>や<シェルタリング・スカイ>を製作したジェレミー・トーマスがプロデューサーを買って出ても、小説を読んだ人なら誰でも懐疑的になるはずだ。多彩な殺し、同性愛のレイプ、手足をちょんぎるシーン?どう脚色しても「4億ドルかけて世界中の国で上映禁止になる」のを監督も認めている。そこでクローネンバーグは小説<裸のランチ>を脚色するのではなく、その小説がどうやって書かれたか、創造のプロセスの心理学を変換してみせるという非凡なことを試みる。コーエン兄弟は<バートン・フィンク>で作家が書けないときどうなるかを探検した。<裸のランチ>では彼らが書くときにどんなことが続いて起こるかを考察している。ピーター・ウェラーが演じるバロウズの想像上の分身、ビル・リーの執筆の過程にクローネンバーグは何気なくバロウズの略歴をほのめかす作品からの主題を本の幻覚と交互にミックスさせる。ゴキブリ駆除業者という職業や偶然の事故だった女房殺し、50年代どこの国の管轄でもなかった自由港タンジールに長期滞在したことなど。気ままに演奏するオーネット・コールマンのサックスに浮浪者のみすぼらしい住処、ケルアックとギンズバーグと仲間の作家とおぼしき助っ人たち、ジャンキーのドタバタ、二人組の麻薬捜査官など、映画は紛れもなく歴史の中のひとつの時代の特色を表していた。
そしてタンジールで撮影するという計画のすべてが湾岸戦争でダメになったことから、クローネンバーグはラッキーにも彼の住むトロントで窓から侵入してタイプライターかラップトップの上に居座る昆虫の小さなアンテナとのお互いを理解しようとする長い凝視に見切りをつけて、本来の小説の言葉による攻撃が計画的なドラッグの使用によって誘発された意識のアルタードステイツからもたらされたものなのを適切に注入する脚本に書き直すことができた。
バロウズは<裸のランチ>をモルヒネのショットとショットのあいだに書いた。そこにはジャンキーの遺言を超えた「社会の条件付けに対するメタファーとして中毒がいかに役立つものか」、「神経組織への間接的な刺激によって人間のふるまいがいかに緩和されるものか」、「人間を統制する秘密機関によって操作された現実とはどういう現実か」といったバロウズの興味があった。そして暴かれる当時のアイゼンハワー・アメリカの冷戦という内部構造。
クローネンバーグの解釈により、書くことは人を脅かす厄介な本能的作業になる。書くという内的行為の体験を書いていない人に伝えるというのはべらぼうなことなはずだし、それを具体的な外観上のものに置き換えなければならない。青みがかった爬虫類系のヒューマノイド=マグワンプや、昆虫=しゃべるタイプライター、巨大なゴキブリなどはその通りのものではなく、書く過程でビル・リーが幻覚でもって表現したものだ。彼は映画の中でたくさんのことを否定している。彼の同性愛衝動やアートといったもの、気まぐれな部分をほとんど押さえつけて社会に没頭させようとしている。それでも内からのプレッシャーが凄すぎて彼の無意識はこれらの事柄が否認できるものでないのをわからせるのにインターゾーン(バロウズは
タンジールのことをインターゾーンと呼ぶ)という誰もが彼のことをホモだと認める場所を創作する。書くことでも同様に書くことを余儀なくさせる何事かを創り出す。バロウズは実際に女房のジョーンの頭を撃ち抜いていなければ作家にはならなかっただろうという結論に達したと書いている。ジョーンの死という取り憑かれるものの支配から逃れるには書くことしかなかった。だから彼女の死は映画の中で二度も繰り返されることになり、それが永遠に続くと観客にわからせる。
また、バロウズが最高の仕事だったと回想する職業、ゴキブリ駆除業者はとてもすばらしいメタファーだとクローネンバーグは説明している。現にこのプロジェクトへの取っかかりとして彼はバロウズの回想を綴った<エクスターミネーター>をヒントにした。それはビル・リーが実はふりをしている、彼自身の確かな現実を打ち消して避けているのを教えるためのものであって、彼が幻想を支配する程度に幻想もまたその幻想を否定する。彼はゴキブリを皆殺しにするのはまったく合理的な考えだと言う、でも彼が本当に皆殺しにしているのは虫の他には彼の無意識であり同性愛衝動であり創造の必要性だった。昆虫としてのタイプライター、昆虫の無意識は抑制しようとする彼の奇妙で突飛な部分を表している。2時間あまり、ビル・リーの書いた人生を生きているのであって彼の現実の生活のほとんどを見逃していることに観客は気づく。少なくとも監督はそう期待している。
この映画を「知性のなかで逆立ちして、オーラのなかで不安定なほこりのように乾いている」メンタルデンティストを訪れるようなものと評するローリングストーン誌のインタヴューでクローネンバーグはこう語っている。
「書くこと、創造することを多少理解するうち、それに直接かかわることで私は基本的なことに近づきつつあると思う。自分のリアリティを創造するために、そのリアリティに慣れるために、カオスから出てリアリティを命じながら書くというのはどういうことか?それを抽出して得た見解が作家でした。バロウズがやってることの難しさと同様に、映画にするのは危険という事実はスリルの一部です」
また、バロウズを魅了したしゃべるタイプライターは作家とその執筆マシーン、さらにはアーティストとその媒体=手のワザとの関係という主題だ。どんな作家もタイプライター(今はコンピュータのキーボード)を介してひとりごとを言っている。作家と書いているものとのあいだには確かに職人のワザ、手段と技術がたくさん作用する。バロウズは彼の無意識をすっかり白状することによって自分を自由にすることができた。そして書くことによって生き残ることができた。
「死は避けられないものだから私たちは自由に自分のリアリティを創作する。私たちは文化の一部であり、倫理に適った道徳システムの一部だが、私たちがやるべきことはそこから踏み出して完璧なことなど何もないのを悟ること。真実は完璧なものではなく人間が組み立てたもので変化と再考が可能なものと悟った後に私たちは自由に倫理的でも道徳的でもないものになりえる。社会が最もタブーとみなすすべてのことができる」(<裸のランチ>より、ハッサン・イ・サバによる実存主義者の声明)と説くバロウズは幸運にも時代が追いつく予言的作家だ。60年代、「たわごと」だと言われたすぐ中毒するドラッグの出現や、老人を永遠に若者の姿に変えてしまう非人間的な外科手術の妄想。同性愛者を襲う性行為に起因する病気はエイズを予言したものと今では誰もが認めている。
人が一番嫌がることをしゃべるバロウズの小説はガンのように広がる官僚主義によって人間の可能性を無効にするというメタファーとして示される。物事に対するクローネンバーグの解釈はもっとずっと積極的な反応の触媒になる。からだの病気の徴候のように順応させることができる新しい美意識といったものを創造すること。あるいはからだの内部の眺め、<戦慄の絆>で言わせている「最高の脾臓と最高の肝臓のビューティコンテスト」といった考え方。それらは堕落が自由の種に属するという可能性にうまくかみ合う。それにポスト人間進化のありそうな兆し。私たちがもっと進化の支配のことを意識するようになること、もっといいのは私たちがなろうとしてるものから外れることだ。
<シヴァーズ>の寄生虫に一体感を感じるというような美意識を理解できないでいる政治的に品行方正な批評家は、彼の映画の女性の性衝動の表現が法律と命令の力を盲目的に崇拝する汚名を女性に押しつけるものだと非難する。クローネンバーグに言わせればそんなのは50年代を呼び戻す禁欲的なピューリタニズムで、娼婦や女装趣味の人のことなど神のみぞ知ることをあれこれ論じるTV
のトークショーで兼ねられるものだった。右翼のフェミニスト運動、アンチ・エイズ行動、エコロジー運動(彼の友人はそれをエコ・ファシズムと呼ぶ)、地球などを救うふりをして返り咲く政治的に正そうとするものすべて。実際にあの時代とそれほどかけ離れていないことに驚かされる。
バロウズとクローネンバーグの違いは性感覚にある。クローネンバーグはゲイではなかったがゲイを恐れてもいない。性衝動はバイセクシャルの行為を超えたもので原始時代からある大抵が乳児のものと認識している。小説のなかでビル・リーのタイプライターが「同性愛行為は政府の機関が使えるありとあらゆる雑誌の表紙を飾るカヴァーストーリー」という趣旨の一節をタイプする。女性と男性がその意志も使命もまったく異なった種だと考えるバロウズは、女性も男性同様どうしようもない存在ですべてが間違った認識だと言っている。そしてもうすべて何もなかったことにしてしまいたくなると。
ヴィレッジヴォイス紙は映画は「あれこれじっくり考えるための遊歩道」と評している。とにかくたくさんのレベルで事が起こり、本のファンにはくつろげる映画なのは間違いない。ジョーンが中毒する粉末ゴキブリ!それはとても文学的な高揚、カフカの恍惚感をもたらし、まるで昆虫が感じるように感じるものだとか。
CRONENBERG ON CRONENBERG
クローネンバーグのホラーの世界は気楽な切り裂き魔のうわべのホラーとは違い、はるかに気味の悪い自分の自意識の危険なホラーだ。彼が創り上げる非凡な作品の多くは、そういうかき乱された精神と肉体の状態から現れる。そして映画はいつも彼がカナダ人のバランス感覚と呼ぶもので一種の分析麻痺に導かれる。
→すべてのホラーは「私を当惑させる死の恐怖」というラテン語のフレーズから生じるものとあなたは言っています。あなたの死の恐怖を解決する方法はあるのですか?映画を作ることで解決しているのですか?
←解決できるものかどうかわかりませんがやってみます。アートを通してやるべきことで、すべてのアートとは何かという感覚にあるものです。私は宗教に反抗する、あるいは宗教を置き換えるものとしてアートをとらえています。
→あなたは自殺についての考えをたっぷり映画に入れていますね?
←多分、自殺は私たちの死に意味を与える唯一の方法。他の死は完璧に気まぐれです。死の瞬間をコントロールして死を意味づけることができるのです。宇宙に存在する唯一の意味は人間の頭脳から生じるものだと信じます。人類の他に神が存在するとか、そこからもたらされる意味という永遠のシステムがあるとは思いません。そういう観点で見ると自殺がエレガントで立派に組織された人生の出口であるのを人に納得させます。とにかくそうなのですから。
ある意味で、映画で登場人物が死ぬときには必ず、私自身の死のリハーサルをしているのです。
→あなたの映画のカタルシスについて聞きたいのですが?
←多分、私の映画のカタルシスはソープオペラやありきたりのコメディに見いだされるものより複雑で、そこにあるのは物事はそう簡単には解決できるものではないという私の再認識です。セットされたカオスから物事を隔離する構図のようなもので、これから2時間のあいだ君の世界となるものに実際に深く潜ることになり、あらゆる局面を探検することになる。私にとってまさにそれがカタルシスの場なのです。
→それであなたの作品にはオリヴァー・ストーンのような古典的カタルシスが重要ではないのですね。<プラトーン>のラストの感動の洗浄や<7月4日に生まれて>みたいな。
←それは彼が真実を語るのを恐れているからでしょう。あらゆる喝采のせいで、トム・クルーズが復員軍人病院であんな恐ろしい体験をしていてもそれにいかなる意義もなかったという最後の強打を加えられずにいる。それは起こる必要もなかったことです。本当にその男の人生をコケにしていることなのに、手のほどこしようがないときている!
多分、オリヴァー・ストーンにとって語るのに適した真実ではないのでしょう。それはハードな真実です。
→アーティストにはモラルとか社会的責任があるのでしょうか?
←ありません。市民としての責任はありますが、アーティストとしての責任は責任を負わなくなるというパラドクスです。社会的とか政治的責任について話すとたちまちアーティストだから手に入れた最高の手足を切断することになります。せきたてて性格を形作ろうとする、アートをまったく無駄で効果のないものしようとするとても拘束するシステムにプラグを差し込むことになります。
→私たちはたくさんの馬鹿げたことに配線されてる可能性がありますね。
←それはすばらしいメタファーです。もし私の映画が物事をかき乱して人々がそのせいで拳を振り回すようになるなら上出来です。なぜなら物事はかき乱す必要があると思うからです。
→あなたの映画にはモラルの観念がないと判断されたと聞いています。
←たいていの人のモラルの解釈の理解の範囲は限られたものです。私の映画はモラルに則って撮影されています。アートではすべてのことが許されます。すべてのことが許されていて、可能な限りのアングルで論じられる領域であるべきだということです。
▲インタヴュー集 CRONENBERG ON CRONENBERG:編者クリス・ロドリ1992 FABER/ フィルムアート社
●TAMA- 9 掲載、SPRING 1992
■バロウズの著書、*ジャンキー1953:思潮社 *裸のランチ1959:河出書房新社 *ソフトマシーン1961,1966:ペヨトル工房 *爆発した切符1962:サンリオSF
文庫 *麻薬書簡1963:思潮社 *ノヴァ急報1964:サンリオSF 文庫 EXTERMINATOR 1973:VIKING PRESS *ワイルドボーイズ1969:ペヨトル工房 *シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト1981:思潮社 *クイーア1985:ペヨトル工房 *デッド・ロード1984:思潮社 *ウエスタン・ランド1988:思潮社 *トルネイド・アレイ1992:思潮社 *ダッチ・シュルツ最期のことば1992:白水社 *内なるネコ1994:河出書房新社
■クローネンバーグの作品、*ステレオ1969 *CRIMES OF THE FUTURE
1970 *シヴァース1975 *ラビッド1977 *FAST COMPANY 1978 *ザ・ブルード1979 *スキャナーズ1980 *ヴィデオドローム1982 *デッドゾーン1983 *ザ・フライ1986 *戦慄の絆1989 *裸のランチ1991 *エム・バタフライ1993 *クラッシュ1996 *イグジステンズ1999 *CAMERA
2000(短編集Short 6 の一編としてVideoあり)*スパイダー2002
|