Mulholand
Drive
アメリカのヴァラエティ誌は「ロスト・ハイウェイ」を折り返してひどくなり歓迎されなくなると評し、プレミア誌では一体全体この映画では何が起きてるのか?となり
The
New York Observer に至っては低能でわけのわからんガラクタと切り捨てる。
人を混乱させて悩ませる、「Silencio (お静かに)」と一言発して終わる映画はデイヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライヴ」だが、映画を見た誰もがそれについて黙ってるつもりなどないらしい。石など投げない批評家でさえリンチの超現実的な情景の意味を説明するのに本人だけに見える自分の生霊ドッペルゲンガーや不完全、夢に関する気まぐれ言葉を引き合いに出す必要性を感じている。いい加減にしてくれ。そんなにひどいって言うのかい。
「Silencio 」!
1986年の「ブルー・ヴェルヴェット」と90年のTV
シリーズの草分け的作品「ツイン・ピークス」の後に続く「マルホランド・ドライヴ」は映画に再び活気を感じさせる。リンチには新たな勝利であるこの罰当たりな快感がひどくいやーな年となった2001年のベスト映画のひとつになる(カンヌで監督賞を受賞)。頭を黙らせて映画に入り込み、視覚と聴覚のアートに身をゆだね、映画に屈服することだ。97年の「ロスト・ハイウェイ」から切り取った冷淡な態度と感情に基づくリンチの無意識がなすワイルドで楽しい体験。幻想のような思いきりと、うっとりするエロティシズム。猥褻な売春婦のリップグロスのような色彩のせいで純粋無垢なやつなど登場しない。
それが問題だった。映画は最初、TV
シリーズにするつもりで作られた。99年のパイロット版を見たABC の幹部連中が先例に従うFOX といつもは大胆なHBO と共にびくついてやめにした。8百万ドルのパイロット版をもう一度思いつくのにリンチには7百万ドルの追加資金が必要だった。それを精算したのがフランスのスタジオ・キャナル。探偵役のロバート・フォスターの一度で消える演技はパイロット版のなごりだ。それがどうした。「マルホランド・ドライヴ」はどこもかしこもダークで目もくらむばかりの作品だ。こんな息をのむようなイメージと引き換えなら明瞭なつまづきも安い代償に思える。
ただし、リンチ初心者には傑作でも、リンチの過去の作品、ことさら「ロスト・ハイウェイ」のテーマと言える並列する宇宙、アイデンティティの乗換え、二つの宇宙のあいだで仲介者として振る舞う変人、私たち全員が他の誰かの夢の傀儡だとか、カーテンや小さな人(今回はハリウッドとつながる大物だ)に通じてるファンにはいつも通りのリンチ映画に思える不幸がある。たとえそれが気に入っていてもだ。
騒々しいポップアート調のジルバコンテストの後、ベッドで身もだえして身体を回転させる女性でその熱に浮かされた夢の幕が開く映画は、やはりおなじみのアンジェロ・バダラメンテ(エスプレッソを吐き出すモブスターを演じてもいる)の人の心を不安にさせる背景音楽によって一段と際だつリンチ特有のインク・ブラック、ロサンジェルスの夜に迷い込む。
有名とは言えない二人の女優、ナオミ・ワッツとローラ・エレナ・ハリングがこれまでもっぱら演じてきた困ったベイビーの魅力を凌ぐという点で映画はセンセーショナルだ。TV
のソープドラマ「サンセットビーチ」のハリングがベティの空想のなかで映画「ギルダ」のリタ・ヘイワースのポスターを見てとっさに思いつくリタとして見せるあの魅惑的な石版のような無表情。常に脅迫めいた暗雲がかかったようなリタと、猫のように官能的な動きのカミーラとしてのハッとする演技。そしてイギリス生まれオーストラリア育ちのナオミ・ワッツは思いがけなかった。ベティの明るい外面の下に隠れた破壊衝動をことごとく暴いていく彼女のパフォーマンスは今年最高の演技に並ぶものだ。
リタがベティを強引に連れていった衰退したナイトクラブで、青い髪のレディが「Silencio 」と囁くとき、頭を掻いてリンチをフリークと罵るか、ベティとおぼしき女性が体験している夢と了解するか。映画の終盤でアイデンティティがシフトして世界がバランスを投げ出すとき、リンチとカメラマンのピーター・デミング、プロダクションデザイナーのジャック・フィスク、編集のメアリー・スウィーニーによって巧妙に編み出されるパズルのコマに私たちはリンクしようと勢いづく。このチャレンジがなんとも爽快。たとえ途方に暮れても、物事が見えてるとおりのものと同じではないことや自分自身について多くを発見することになる。
●参考資料:Rolling
Stones.com Oct.26, 2001
Peter
Travers Nov.8, 2001
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"ピークからピークへ:メディアの意識革命を試みるデイヴィッド・リンチ"
常軌の逸脱ぶりでTV のドラマシリーズの代表格に躍り出る「ツイン・ピークス」がヴィデオという形で到着したのは1980年代を代表する最高傑作に選ばれた「ブルー・ヴェルヴェット」から3年経てのこと。
アメリカのABC ネットワークは「ツイン・ピークス」のパイロット版(2時間枠のスペシャル版)と全7話からなるエピソードを拾い上げたときからリンチとマーク・フロスト・プロダクションに絡むことなる。当時リンチが「強力な支え」と言ったABC
の幹部はリンチの手並みの背後にあるもので十分いける、それはユニークで、「ペイトン・プレイス」のようなTV のビッグヒットに通じる要素があると見込む。とはいえ、TV
はマスの文化だ。なかなか放映されないまま、多くの雑誌がTV におけるリンチのインパクトについてカヴァーストーリーを載せる。話ばかりが先行するなか、イギリスとヨーロッパでパイロット版を基に謎の結末やエピローグを付け加えたヴィデオ版をリリースする。そしてついに90年4月12日、日曜夜9時にABC
はコマーシャルなしでパイロット版を放送した。
視聴率は33%(なんと全米の33%の人がこれを見た!)を記録して「誰がローラ・パーマーを殺したのか」が日常の会話の話題になるほどの人気番組となり、「ツイン・ピークス・マニア」まで生むことになる。(日本でもツアーが組まれるまでの人気だった)
TV というメディアに惹きつけられる映像作家はなにもリンチが初めてではない。たとえばアルフレッド・ヒッチコック。彼はホストとして作家のコンセプトを開拓するが、彼のTV
の仕事に映画と同じリスクの高い異常心理の傑作はなかった。ヒッチコックの冒険から30年後、今度はマイケル・マンが「マイアミ・バイス」のなかに彼のネオノワールフィルム「マンハンター」の冷淡な表現主義を広げることによって独創性や個性的演出をはっきり打ち出す監督の気質を見せる。リンチにはヒッチコックやマイケル・マンに通ずる暴力を伴う魅惑や精神心理の病理学、女性たちにのしかかる死という要素があるが、「ツイン・ピークス」はそれらに比べもっとずっと過激に主観的で、イメージが働くときそこには夢のハイパーリアリティがあった。そしてなにより「ツイン・ピークス」には90年代の感性とTV
ドラマを刺激して意識を変えさせる衝撃があった。
リンチは不可能を試みるアーティスト
「ほとんどTV は見ていない。若い頃はペリー・メイソンを見たけど」と語るリンチはハイスクール時代にはTV
を見るより友達がいていろいろやること(things )があったと言った。彼が独特に使う言葉「things 」(特定の対象または行為、プロセスを言い表すのに的確に使われ抽象と言うより彼の頭の中で見ているイメージを表す言葉のようだ)には、たとえば鉄パイプ爆弾を作って空っぽのプールのような場所でそれを爆発させることが含まれる(タイムズ誌に語る)。「66年から69年にはソープオペラを見ていた。私にはそのチャンネルを廻す閃きがあった。ドロシー・マクギネスを見たからね。私のグランドマザーという短編映画で彼女がおばあさんを演じている。普通のソープではキャラクターとストーリーはつかめてもムードや場所の感覚は無理だ。私には場所の感覚とディティールが非常に重要なんだよ」
カナダの国境から南に5マイル、合衆国ラインから西に12マイル、製材業で成り立つ一見のどかで平和な小さな田舎町ツイン・ピークスで展開する複雑なミステリー「ツイン・ピークス」ではリンチが言うところの細かなディティールが町に潜む不条理や健全なうわべのすぐ下にある邪悪を暴くことに駆り立てる。たとえば電話のコード、変圧器のせいで点滅する死体公示所の蛍光灯、階段踊り場の換気扇のプロペラ、トラックやバイク、感情的なディスプレー、そして霧笛の音やリンチ特有の工業的ノイズなどだ。
ツイン・ピークスの町はうわべは現代でも深く50年代に固定されている。リンチは50年代という時代のムードとセンスが好きだと語った。そして50年代はパワフルですべてが驚きの時代だと言っている。ダイナミックな変化、クレイジーなアートとロックンロール、彼は心底そういうものに包まれていた。傑作なツイン・ピークスの住人たちもしかり。彼らには肉体的にも感情的にも躍動感があり、興奮で紅潮するかと思えば、すすり泣く、震える、そして吠えた。そしてこれまでには見られなかったTV
ドラマの革命的な映像美につながるローラ・パーマーのビニールで梱包された魅惑的な全裸死体。それにまたヴィデオ版ではエピローグになっている25年後の不条理な世界があった。深紅のヴェルヴェットの部屋、老化した皮膚のディティール、セリフを逆さにしゃべらせたテープの逆回転でしゃべる小さな人。このシーンはTV
では第2話に登場して、FBI 捜査官クーパーを演じるカイル・マクラクランの夢のなかで小さな人が踊る。
リンチはアートを志してアートスクールに通った。今でも新聞のコマ割り漫画やアート・ギャラリー、ライヴパフォーマンスのプロデュースを数々手がけている。
リンチは自分が描いた絵に音と動きが欠落していることに不満を覚え、色彩だけでなくメロディーやノイズまでもが出てくるような空間的感覚を求めて映画というアートに興味を示す。ロンドンのICA
で見た彼の最初の実験的アートフィルム「アルファベット(4分)」は入口で手渡されたミラーを通して逆さまに映写されたフィルムを見るというアート体験。そこにはすでにリンチのノイズ、サイレンが使われている。2作目の短編「グランドマザー(35分、1970年作品)」の水をやるとベッドからおばあちゃんが生えてくるというグロテスクなイメージには度肝を抜かれる。そして、実際にリンチが住んでいた死体公示所に隣接する工場のような陰気な家や脚が悪くて歩行器をつけていたという彼の最初の子供など、個人的環境が重要な要素となっていると言われる文句なく彼の代表作、「イレイザーヘッド」にはフィラデルフィアの街の雰囲気、暗くて灰色の否定的イメージがリンチ流に描かれていた。
リンチは概念と物質に興味があり、たとえば夢の内容には興味を感じずに夢によって得た感覚に魅せられる。「説明できないものが同時に驚くほどリアルでもあるんだよ」
「人は日常的なレヴェルのことで取るに足らないことや時に不可解な隠れた意味であるものを探そうとはしない。自分の感覚や感情をいちいち"なぜ?"ではくくらないのに、アートには常に"なぜ?"に対する答を要求して説明させようとする。言葉で説明したり表現すればするほど感情的なものが薄められていき典型的なものに成り下がってしまうのに」と不満を漏らす。
「ツイン・ピークス」の次に控えていた「ワイルド・アット・ハート」がカンヌのグランプリに輝くという快挙をやってのけたリンチは、TV のゴールデンアワーの範囲を広げるってだけでなく、次なるピークに向かって不可能の道を喜んで進む、稀なアーティストであるのは間違いない。
●TAMA-3掲載、1990
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