ストリートラベルNO.1
トミーヒルフィガー
今から30年前トム・ウルフが「ミッド・アトランティック・マン」と呼んだイギリスの若者世代はイギリスのポップスよりアメリカのR & B を聴いてハリウッドで猛烈に仕事するTV
/ PR / 広告というダイナミックな職業からヒーローを選んだ。 彼らにはUK とUSA の距離は大西洋航路をジェット機で7時間という地理的隔たりでしかなく彼らの父親世代がよく似ていてもまったく異質な両国家間の文化的・心理的隔たりを見て取っていたのとは明らかに対照的だった。
今でも「ミッド・アトランティック・マン」は健在だ。 本流のハウスよりヒップホップを聴いてニューヨークへのアドレナリンを刺激するトリップから戻るたびに買いあさったレコードやCD
、特価のハード製品、限定版の靴、それに「トミーヒルフィガー」とラベルの付いた服など旅の戦利品に飛びつく。 少なくともロンドンに店がオープンする昨年後半までは大西洋のこちら側、UKサイドで「トミーヒルフィガー」を買うのは不可能に近かった。
カルヴァン・クラインとラルフ・ローレンがアメリカのメンズウエアを代表する顔だった1985年当時ニューヨークの街に若い新人デザイナーの到来を告げるポスターが登場した。「アメリカの偉大な4人のデザイナーRL
PE CK TH 」それに続いて「まずはジェフリー・ビーン、ビル・ブラス、スタンリー・ブラッカー、次にカルヴァン・クライン、ペリー・エリス、ラルフ・ローレン、そして今はトミー.......」と自慢するその広告がTV
・雑誌に流れてキャンペーンが頂点に達すると街のファッションエリートから「あんな傲慢で品のない広告キャンペーンは見たことがない」と罵りの抗議が起きる。
10年後、どう見ても張り切り屋の典型的アメリカンボーイにしか見えない44歳のヒルフィガーは当時の論争に「ちょっと大胆だったかなと思ったよ」と肩をすくめてみせる。
かつてフィラデルフィア・インクワイアー紙が皮肉抜きで「プレッピー」と形容したヒルフィガーは既婚・3人の子供・夏は航海、冬はスキーという周知のイメージから赤・白・青のラベルまで、自分のアイデンティティをアメリカのアイデンティティに基づかせる。彼の服は本人いわく「外観は船乗りでフィーリングはギャツビー」、表面的にはイーストコーストの金持ちエリートのライフスタイルを反映させながら実はもっと幅広い異文化間の支持者を惹き付けていた。
最も熱烈な彼の服のファンはアメリカの主としてスラム化した大都市の中心部に住む黒人だ。同じような支持を共有する他のデザイナーとは異なり事あるごとにスラム育ちの黒人たちの支持の重みを認める発言をしてきたヒルフィガーはどんなメジャーリーグ・デザイナーより的確に人種が入り交じる若い都会のアメリカの矛盾した心、その脈動について意見を述べることができた。
トミー・ヒルフィガーはまだ高校に通う18歳で友達とニューヨーク州北部のホームタウンに店を出す。 1970年、「ザ・フー、レッド・ツェッペリン、ストーンズ、スモール・フェイセズ、ボウイ、ザ・ドアーズ、ヘンドリックスを聴いていた。アルバムの写真でジミー・ペイジやロバート・プラントがパッチワークのヴェルヴェットのフレアーパンツや厚底ぽっくり型の靴をはいてるのを見て知り、僕もあんな格好がしたいなーと思った。でもそんな服はどこにも見当たらない。そこでブラックライトのポスターやキャンドル、お香なんかがあるヒッピータイプのヘッドショップをオープンさせたんだ」
ピープルズプレイスと呼ばれる彼らの店は瞬く間に成功する。店は2年で当時流行の全服飾品を取りそろえる7店舗にまで発展してヒルフィガーは23歳までに本物の金持ちになっていた。
「僕はロングヘアーでヘビ革のハイヒールブーツをはいていた。よく世界中を旅したし、スピードの出るクルマに乗ってロックスターともつきあった。しばらくの間ロンドンにも住んだよ。ビジネスは永遠に続くものだと思っていた」
だんだん小売業に無関心になっていくヒルフィガーは成長を急ぎすぎたせいで70年代の後半には破産を余儀なくされる。そうして正規の修行を積むこともなしにフリーランスのデザイナーの仕事を見つける。
衣料界の大物の後押しを得てヒルフィガーは彼のような人間が着たいと思う「クラシックでもカジュアル」な、いわゆるクラシックとは異なる彼独自のクラシック・ラインを打ち出した。「それを着て成長したカーキ色の衣類、チノの服、ボタンダウンのシャツにもう一度親しんでもらいたかった」
例の悪名高きビルボード広告で発進するヒルフィガーのデザインはアメリカのメンズのオーソドックスをゆっくりと襲撃するものだった。シャツは大きめでパンツはルーズなバギー。カントリークラブ保守主義が内在するラルフ・ローレンのポロのロゴと比較して彼のシンボルマーク、赤・白・青の航海旗は若者のエネルギーの現れのように思えた。
この10年彼の服は驚くように売れた。ニューヨーク証券取引所でNO.1 アパレルと引き合いに出されるヒルフィガーは今じゃファッションの主流派だ。80年代ずっと会社の成長に合わせて多様化に着手しラグビーシャツや航海の身の回り品といったスポーツウエアをデザインするうちに彼の服が主流のプレッピーウエアとして市場に出される一方で大都市の中心部の住人アフリカ系アメリカ人の熱心な支持者をも惹き付けてることに気づく。
「トミーヒルフィガー」はストリートを占有する最初のデザイナー名ではない。でもナイキ、ラルフ・ローレンといった会社とブラックアメリカとの関係は複雑で騒然としている。ブランドの価値を下げるとでも思っているのかほとんどの会社が若い黒人消費者の支持の高さを進んで認めたがらない。
90年代に入り常に音楽から影響を受けてきたヒルフィガーはラップからこの子供たちがとてつもなくデカイ実にバギーな素晴らしいスポーツウエアを着てること気づくと「このインスピレーションを丸ごと僕のクラシックが入ったミキサーに投げ込みスポーツ・音楽・ファッション・機能性をいっしょくたにした最高に仰天もののラグビーシャツとホッケーシャツを発表した。でもなんだかこの都会のストリートキッズには借りがあるように思えて彼らが欲しがるものを作ってやろうと思い立ち、ロゴを爆発的に増やしカラフルになにもかもを大きく作ったんだ」
代わりにヒルフィガーは大いに尊敬されるストリートブランドのNO.1 になって余すところなくヒップホップで褒め称えられる。MTV アワード授賞式に彼のラグビーシャツを着て現れたスヌープ・ドギー・ドッグ。彼のデザインを愛用するメソッド・マンやモブ・ディープ。これはヒルフィガーが非常に貴重な文化的地位を得たということだった。
US ブラックカルチャー誌「Vibe 」のファッションディレクター、プロコープはこれを「アルマーニを着るエリック・クラプトンやレオナルド・ディカプリオのストリート版」と述べる。彼は昨年ヒルフィガーの服だけでVIbe
ファッションショーを行った。「業界のだれもがこれに関わりたがったよ。トミーはヒップホップ市場を採用した。人にはまあなんとデカイ服かってことがわかるだけなんだけど」
「彼はこの時点でカルヴァンを越える最もホットな人物だ。彼の勢いは天井知らず、止まるとは思えないね」
強力な黒人消費者市場を抱えるヒルフィガーはゲームを進めるために毎月小さな新作コレクションを発表してデザインに助言をもたらすアフリカ系アメリカ人のグループに焦点を合わせる。
ヒルフィガーの服はヒップホップのエネルギーを借用すればするほどその網が広がってアメリカの若者そのもののヴァイタリティを表すものになっていく。そしてスポーツ、レジャー、娯楽の境界線があやふやになっていくにつれますます異なった分野に等分に関連する活発なライフスタイルを表すようになっていく。スキー服のストリート向けデザインだとか、沿岸警備隊のアイディアを山登りのアイディアに借用した機能的ファッションだとか。
そしてこのすべてが30年前に海を渡った「ミッド・アトランティック・マン」がアメリカのエッセンスとして捕らえていたのと同じファッション哲学でデザインされる。
で、その哲学とは?
しばらく間をおいて彼はこう答える。 「アメリカの文化には人生とはこういうものというルールがない。いつ何を着るかのルールもない。時間にもルールがない。こういうことだよ」
▲参考資料:INTERVIEW august 1995
●TAMA- 19 掲載、1996年 SPRING
|