TRIP DOWN MEMORY LANE
記憶の通路をトリップするクローネンバーグの<スパイダー>は繰り返し見るよう促し、それに報いる映画だ

冒頭、到着した列車の一番最後にぎこちなく降り立つ男、デニス・クレッグ(レイフ・ファインズ)を見た途端、彼が錯綜する狂人の世界の真っ只中にいるのを観客は実感する。監督デイヴィッド・クローネンバーグの人の心をかき乱す鮮やかな手並みの新作<スパイダー>はリュミエール兄弟がシネマトグラフと呼ぶところの病状や徴候が患者以外にもわかる他覚的なドキュメンタリーだったが、精気と可能性に満ちている。

独特の作風をポストモダンゴシックと呼ばれる作家パトリック・マグラアの90年の力作、<スパイダー>から作家自身が脚色した映画はただちにうちとけない妄想感覚を呼び出して驚くばかりのムードを最後まで維持する。存在について強度の恐れで苦しむ統合失調症(精神分裂症のこと)に対するアプローチは客観的というより詩的でこの心理学上の苦痛の喚起は厳然としたきわものと繊細の両方で描写される。主人公の忘我状態を伴う光景や幻覚状態のみすぼらしさなど、この病歴は幻覚でもって厳密に表現される。
病院から放免された主人公の社会復帰のための中間施設は巨大なガスタンクから工業用運河を隔てたところにある。グロテスクにも幼年時代に配管工の父(ガブリエル・バーン)と彼をスパイダーと呼ぶ母(ミランダ・リチャードソン)と一緒に暮らした家の近くに彼は放免される。ことによるとそう彼が想像するだけかもしれない。
幼年時代の家に取り憑き、母をスパイして、パブまで父を呼びに行くひとりぼっちの幼年期の自分(ブラッドリー・ホール)の後を追い、家族にとり落胆の夕食の時をクローゼットに隠れて見るなど映画のほとんどでスパイダーは過去をかき回して捜す。
クローネンバーグは絶対的自信を持ってフラッシュバックを処理する。
マグラアの小説は華麗に書かれた精神異常者の日記でひどくあてにならないナレーターによるわかりやすい一人称の身の上話だ。けれど映画はナレーターの手引きを用意しない。クローネンバーグはスパイダーが見るものを明らかにした上、スパイダーも明らかにする。彼は少なくともシャツを4枚重ね着する。ある理由からガス臭さに病的に反応するクレッグは新聞紙も巻きつけることからそれがガスの侵入を防ぐ手段だとわかる。作家とも見える彼のぼろぼろの秘密のノートに記録する記憶の掘り起こしは彼にしかわからない代物だ。
恐いほど役になりきるレイフ・ファインズの演技は目立つと同時に控えめだ。口の中でもぐもぐ言うセリフか、タバコを巻くことで危機に立ち向かうときの器用さで表に出る雄弁さか、彼の演技は圧倒的にフィジカルだ。もうひとり統合失調症と言えなくもない、スパイダーの宇宙論に指図されて様々な外観となって繰り返し現れるミランダ・リチャードソンは複数の役柄の引継を意気揚々とさばく。
クローネンバーグの確かに非凡な、知的であると同様に内蔵で感じる作品の中でも編集と演技が特殊効果を提供する<スパイダー>の抑制、十分精密であると同時にぎりぎりまでに簡潔な表現は非のつけようがない。主人公のもつれた意識の内と外の両方を操作する能力は超人的でさえある。


雑誌ファンゴリアの「生涯賞」を受け取るためニューヨークを訪れた映画作家(DC )がトライベッカのロフトに愛想のよい作家(PM )を訪ねてコウモリで盛り上がる。


DC:映画は君と僕との完璧な融合だね。パトリック、君は僕に送る前にアトム・エゴヤンに脚本を送っただろ。トロント映画祭でアトムが<スパイダー>を見た後に「脚本は読んだがこれを見るまで映画は想像しなかった」と言ってね。自分の記憶にさまようスパイダーという趣向が芝居じみていて映画には向かないと彼は思ったんだ。
PM:最初に僕が小説を書き出したときはスパイダーの父親の話だった。でもそれから話が進むにつれ、このトラウマとなる段階を忘れずにいる男になる子供の観点で語られるべきだと思った。それから、おもしろくなったよ。君が感心を持たなかった精神異常のナレーター特有の表現で僕は考え始めた。
DC:それは違う。スパイダーの心の動揺には関心を持ったよ。とても強烈でね。それを徴候として示すなら万人共通のものになっても不思議ないところまで持っていける気がした。もし登場人物に精神分裂症のレッテルを貼ったら観客が手を引いて、こいつは気狂いだと言いかねない。それは僕の望むところではない。僕は観客にスパイダーでいて欲しいんだ。
PM:もしブロードムア収容所周辺で育たなかったらスパイダーは僕には想像できなかった人物だ。僕の父はそこの精神科医の部長でね、その後カナダの精神病院で働いた。病気のせいで人生が完全に破滅した男たちに会うのはきびしかったよ。
DC:パトリック、君は心中を語るナレーターの声を取り除く僕の決定に少々神経質になってたみたいだね。
PM:彼の頭には激しい地獄のような光景がある、頭の中を巡るこのまったく狂気じみたものに特有の表現で彼は重要であるにすぎないとの信念で僕はスパイダーという登場人物を創ったんだと思うんだよ。
DC:僕らはレイフの髪でそれを言葉にした。激しい地獄のような光景の髪だね。
PM:エディプスコンプレックスを図解する設定にしなかったのは適切だったと思うよ。映画はそれよりも抑圧のプロセスやそのプロセスの崩壊を扱っているからだ。どうやって母親が死んだかに関してスパイダーは代替のひとそろいの記憶を完璧に組み立てている。
DC:(ちらっと上を見て)コウモリがあるね!チョウとガは持ってるんだがコウモリはないんだよ。(どうもぬいぐるみのコウモリのことらしい)
PM:多分、ファンゴリア誌でもらえるよ。
PM:映画を製作する初期段階で君は僕らがいたいわばリアリティゾーンに関してどのシーンも機密扱いするよう求めた。僕らにとってスパイダーは「感染した記憶」と呼んだ今の確かな記憶のなかのスパイダーだった。
DC:映画は2度見るとおもしろい。まったく違って見えるからね。

▲参考資料:Village Voice Feb.26- Mar.4 2003 Interviewed by J.Hoberman
●TAMA-33 掲載、SPRING 2003